2008-10-11

Retreatは何のため?

昨日の夕方から、今日の夜まで、
ちょっと更新のチャンスを逸してました。


なんか、大切なことも忘れていないかな、とちょっと不安なんですが、
一息ついたので、やっと更新。


なんだか、いろいろ書きたいこともあったのですが、
どんどん忘れていきます。
忘れないように書くのが「ブ『ログ』」の
元々の意味なんでしょうがね。


昨日、ある集まりで、
Retreatの意味を考える時がありました。
その中で、ある方が、
イエスが弟子達を連れて寂しいところに退かれたのは、
「弟子達が傲慢にならないため」じゃないか、と言われました。


確かに、弟子達はその前にイエスによって派遣されて、
神の国の福音を語って回っていました。
そして、めざましい成果をえて、大喜びで帰ってきたのです。
そんな中で傲慢になる危険性があったのかもしれません。


そのときに、イエスが弟子達をリトリートに連れて行かれた。


私はずっと、「疲れているから休みなさい」
「燃え尽きないように、自分が満たされることを求めなさい」
というのがリトリートの目的だと思ってきました。


でも、「傲慢にならないように。」
それって大切かも。


「いくら奉仕をしても疲れませんよ」という人、
「奉仕の中で力をもらえますから」と言う人、
そういう人には、「疲れているから」というリトリートは必要ないかもしれません。
でも、それは傲慢になってしまっているのかもしれませんね。


私も、主の前に静まる時、
主にただ、聞くために座り込む時、
必要だと思いました。
傲慢にならないために。

さて、昨日、金曜日の聖書。
金曜日はサムエル第二の20章1-13節。


「そのため、すべてのイスラエル人は、ダビデから離れて、ビクリの子シェバに従って行った。」2節。

シェバの言葉でダビデから去っていったイスラエルの人々。
結局彼らにとって、ダビデを王とするという19章の最後の言葉は何だったのだろうかと思います。
自分の思い通りになれば王とする。
自分達の立場が尊重されれば従う。

それってほんとうに誰かを王としたり、
誰かに従っている者の姿だろうかと思います。

従うっていうことが、
いつの間にか、自分の願いを実現することと交換条件のようになっていたのだと思います。

では、私はどうだろうかと思いました。
私は神さまにほんとうに従っているだろうか、
神さまに従って歩んでいるだろうかと、
ほんとうに神さまを王様として受け入れているだろうかと、
思いました。

自分の事が重んじられなくても、
自分の立場が認められなくても、
主を王として、主に従って歩むものでありたいと思いました。

主よ、
あなたを私の王とします。
私はあなたに従います。
自分の考えをあなたに押しつけません。
あなたの御思いを教えてください。
それに従うことを教えてください。

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