2009-07-27

語ったことが問われる。

昨夜の雨がウソのように、
今日は朝からいい天気です。
昨日ほどは蒸し暑くもないのでしょうか?


でも、少し歩き回ると汗が噴き出しそうです。


外では、少し蝉も鳴いています。


NJでは17年ゼミ以外は、それほど蝉はいないので、
日本のように毎年蝉時雨の中で夏を過ごすと言うことはないのですが、
やっぱり、夏は蝉が鳴くべきですよね。


今日も、午後には雷雨があるかもしれません。


いつものことですが、
日曜日、礼拝で語ったことはすぐに自分に問われてきます。
もちろん、準備している間にも、
自分はどうだろうかと思わされるのですが、
終わってからの方が、「問われる」という感じがします。


余ったものを主のもとに持っていくのではなくて、
生活全体を主の支配にゆだねる。


昨日の夜の時間、
今日の朝の時間、
主の支配の中に生かされていることを覚えていただろうか、
主に愛されている喜びの中に歩んでいただろうか、


礼拝後の勉強会の中でも、
「夫の体は妻のもの、妻の体は夫のもの」という言葉を引きながら、
こういうみことばは要求するために用いるのではなくて、
与えるために用いるのだ、と言いながら、
自分はどのように歩んでいるか、問われていることを感じました。


今日は週に一度の休日。
本当に休日も主のもとで休むことを経験させて頂きたいと思いました。


さて、7月23日(木)の聖書。
23日はテトス3:1-7でした。


「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」5-6節。

テトスの手紙の中には、
いろいろなアドバイスが書かれています。
人々の模範になりなさいとか、
このように生活しなさいとか、
下手をすると「律法的な生き方」、
つまり、外側ばかり、気にする生き方に陥ってしまう、
という危険性があります。

でも、やっぱり、ここを見ると、
わたしたちが救われたのは、
神の恵みであり、わたしたちの行いではないんだ、
決してわたしたちの行いによるのではないんだ、
ということを思わされます。

そのことをいつもいつも忘れないで、
主の恵みの中に生きる、福音に生きる、
赦されている恵みにあふれて生きる、
そのように歩みたいと思います。

主よ、
赦されている恵み、
愛されている喜び、
そこに生きる者とならせてください。
律法ではなく、恵みに生きるものとしてください。


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