2009-04-14

弟子として。

まだ、10時前なので、もう一つ更新。
眠くなる風邪薬を飲んだので、
眠くなったら終わり。

4月11日土曜日の聖書。
11日はヨハネ19:31-42でした。


「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。」38節。

恐れて今まで隠していたことを非難すべきか、
それとも、ここで恐れずにピラトの前に出て行ったことをほめるべきか。

アリマタヤのヨセフはひそかに弟子になっていた、という。
イエスの弟子としての歩みは、
それを隠すようなものではない。

イエスは言われた。
「あなたが人々の前で、私のことを恥ずかしく思うならば、私も天使たちの前であなたのことを恥ずかしく思う」と。

恥というよりは、恐れかもしれない。
それによって人々が持つ反応に敏感になりすぎているのかもしれない。
わかっているけど、ことさらそんなこと言わなくても・・・というのもあるだろう。

だからこそ、聖書は何度も言っているんだろう。
私のことを隠すなよ・・・と。

主にあって、大胆に証しをしていく、
もちろん、言葉にならない証しもすばらしい。
でも、それはもちろんだけれども、
言葉でも、はっきりとイエスを告白していきたい。

主よ、
ヨセフがここで大胆にカミングアウトしたように、
私もイエスの弟子としてカミングアウトすることができますように。
教会の一人一人にも立場を明確にする勇気を与えてください。
あなたご自身がとりでとなってくださいますように。

No comments:

Post a Comment