2009-01-03

永遠の命をかけて。

今朝の祈り会では、とても深く探られました。
今日は出エジプト記の32章。
モーセがシナイ山で神から十戒やそのほかの戒めをいただいているうちに、
下で待っていた人々が、「モーセはどうなったかわからないから、私たちのために神を造ってくれ!」とモーセの兄であり、モーセと共に民を導いていたアロンに迫り、アロンが金の子牛を造るところです。


神は怒りイスラエルの民を滅ぼそうとしますが、モーセは必死に神にとりなし、赦しを乞うのです。


その中で、モーセはここまで言います。


「私の名を命の書から消し去ってもいいです」と。


「命の書」とは救われる人、天国に入れてもらえる人の名前が書いてある書物といわれています。
つまり「永遠の命」を差し出して、人々の赦しを祈ったのです。


「マジで?」と思いました。
どうしてそこまでできる?そこまでする?


正直、この世の命ならわかります。
この肉体の命なら、犠牲にするのは簡単ではありませんが、気持ちはわかります。
でも「永遠の命」を差し出して、しょうもない罪を犯した人々の赦しを乞えるだろうか?


新約聖書でパウロも「彼らのためなら、私がキリストから引き離されてもかまわない」と言いました。


これもすごいですね。


キリストから引き離されたら、ダメじゃん、って思います。
なんてとんでもないこと祈っているんだ?と思います。


自分はできるかというと、やっぱり、
「永遠の命」はかけられません。
だって、「永遠」ですから。


でも、そんな自分の「とりなし」の気持ちって何だろうと思いました。
自分がそんな気持ちで「とりなし」をしているときは、とっても上から目線で、
「しょうがないなあ・・・」と思っている時。
あの蜘蛛の糸のお釈迦さんのことを何にも言えない、
本当に自分の身は安全なところに置いておいて、
「あの人もイエスさま、よろしく頼みますよ」みたいな、態度。


モーセも、パウロも、そして誰よりも、
イエスさまも、人々のために自分の身を差し出しました。


イエスは私のために、呪われたものとなってくださいました。


自分も永遠の命でも投げ出して、
人のために祈ることのできるような者に、ならせて頂きたい、
最後にはそのように思いました。


さて、今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書1章19-34節。


「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」33節。

今、今年の年間牧会方針を考えたり、
教会の組織について、考えたりしているのですが、
結局のところ、聖霊様が働いてくださること、
聖霊様が満ちあふれてくださることが、
決定的に大切なんだなあ、と思わされました。

なんだか、ああでもない、こうでもないとやっているとき、
聖霊様を本気で求めているだろうかと思わされます。

それなりに本気で、真剣に「教会のためを考えて」やっているのですが、
大切なイエスさまはどこにおられるんだろうか、
聖霊様を本気で求めているだろうか、
聖霊様に従っているのだろうか、と思わされます。

聖霊様、
あなたを求めます。
イエス様、
あなたが聖霊様を与えてください。
私のうちに、私たちのうちにあふれ、
あなたのみこころをなしてください。
あなたに聞いていくことのできる者としてください。

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