2009-01-03

今度こそ、開眼の話。

今日も朝は冷えましたが、
元旦の寒さを経験した後では、
暖かく感じるくらいでした。


今日の最高気温は4.5度!でしたが、
今は夕方の6時頃で、すでに氷点下に下がってきています。
明日は晴れますが、夜には雨。
それが場所によってはFreezing Rainになるようです。


お気をつけて。


さて、昨日の開眼なんですが、
昨日の牧師会で、Rick Warrenの”Purpose Driven Life”のことが
話題に出ました。


このRick Warren、現代アメリカで一番影響力のある牧師さんの一人。
こんど、オバマ氏の大統領就任式にはお祈りを頼まれたと。
日本語になっていて、私たちの教会でもいくつか勉強しました。


でも、時々疑問に思うことがありました。
「Purpose Drivenでいいのか?」と。
私は「Gospel Driven」なんじゃないかと思っていたのでした。
救いの喜びに生かされるのこそ、クリスチャンの歩みだと。


だから、もっともっと喜んで主に仕えるようになるためには、
もっともっと福音の深さを、神の愛の深さを知らなければいけないと思っていた。
実際、自分自身、神さまによってその愛を教えてもらったそのときから、
自分の信仰の姿勢が変わった。


だから、その愛をもっともっと知ってもらうためにはどうしたらいいかということばかりを考えてきた。
自分がその愛を受け取るにふさわしくないものであることを知ったらうれしくなる。
だから、罪深さを知ることこそ、喜びへの道だと思ってきた。


だから、Purpose Drivenの考え方は、
馬が鼻先ににんじんをぶら下げられて、
走らされているのと同じじゃないかと思ったこともあった。


で、昨日、そんな私の思いを、みんなにぶつけてみた。
先生方が出してくださった答えを上手に再現はできないのですが、
自分が思わされたことはこんなことでした。


「その救いの喜びも、神さまが天の御国に受け入れてくださるという目的の中で捕らえなおしたらどうか、神のために生きていくという大きな目的の中で捕らえ直すことはできないか」と。救いの喜びも、「罪が示されて、十字架の恵みがわかった」という喜びで、それは本当に私にとって決定的な経験だったんだけれども、もっともっと大きな豊かな人生を通して明らかにされていく救いの大きさのホンのスタートの喜びなのではないだろうか?と。


で、Purpose Driven Lifeの40日間を、早速来週あたりから
一日一つずつ歩んでみようかなあと思わされています。


その中で、自分が経験した救いの喜び、その圧倒的な喜びをどのように捕らえるか、
それをためしてみようと思います。
その経験から25年も経って、遅ればせながら、
その経験をもっと大きな枠の中で再解釈してみようと思ったのです。


それは「私は救いの時の喜びはそれほど大きくなくて、本当に救いということがわかっていないのかも・・・」とか「救われた時は喜びが湧いてきたのに、今はなんだか、冷めてしまって・・・」という人にも新しい光をあてることになるのではないだろうかと思ったのです。


ちょっとわくわくしているんですが・・・。
また、ここで分かち合っていきますね。


さて、昨日、1月2日の聖書。
昨日はヨハネによる福音書1章9-18節。


「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」16節。

このイエスの豊かさ。
恵みの深さ、そこに目が留まりました。
そして、この一年、その豊かさ、恵み深さに目が開かれますように、と思わされました。
本当にこのヨハネが告白しているように、
「イエスさま、って充ち満ちた豊かさをもっておられるんだよねえ」
「恵みに恵みがくわれられて、もうねえ大変!」って
言えるように、主に教えて頂きたいと思います。
経験させて頂きたいと思います。

主よ、
あなたの豊かさを知りたい。
あなたの恵みをもっと経験したいです。
「恵みに恵みが加えられる」ってほどに!
イエスさま、
よろしくお願いします。





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