歩いたと言っても、
マンハッタンを歩き回ったのではないです。
今日の夜は高校のBack to School Nightで、
2人の子供たちがいるので、夫婦で手分けをして、
ひとりずつの子供のクラスを回ったのですが、
高校は時間ごとにクラスが違うので、
2時間くらいかけて、8つのクラスを回ります。
わたしがユキの方を担当したのですが、
歩く歩く。
迷路のような学校の中で、
あっちのクラス、こっちのクラスと歩き回ります。
いつもこんな感じなのか・・・と思います。
でも楽しかったです。
今年、High Schoolに入ったユキにとって、
本当に楽しい一年になってほしいなあと思います。
こちらはとても涼しい夜ですが、
南の方、メキシコ湾のハリケーンアイクは発達しながら、
西北西に進んでいます。
土曜日にはテキサスに上陸するでしょう。
ヒューストンのような大都市を直撃しないように祈るのみです。
また、日本でも沖縄の南に
非常に強い台風が北上しています。
こちらも要注意です。
さて、後1日で追いつきます。
昨日、9月9日火曜日の聖書。
火曜日はサムエル第二5:1-10でした。
「万軍の神、主が彼とともにおられた。」10節。
結局のところ、
ダビデの王権の確立は、
神さまがいてくださる、ということにかかっていたわけです。
私たちの祝福もそうなんですよね。
主が共にいてくださる、
主がそこにいてくださる、
それが私たちの祝福の土台です。
私たちが堅く立っていくための必要条件です。
神さまが共にいてくださることに心から感謝します。
神さまはいつも共にいてくださるのに、
聖書は時々、「神が共におられたので」という表現をしている。
そのレベルが違うときがあるんだろうかと思います。
私たちの罪故に、神が悲しんで去られるときもあるのかなあと思います。
悔いた砕けた心に住んでくださるとも書かれています。
ですから、神さまがいつも共にいてくださるように、
と祈ることは本当に必要なんだなあと思います。
主よ、
わたしと共にいてください。
あなたが共におられる、思いを与えてください。
そして、あなたの臨在を覚えて歩む者でありますように。
かきごおり先生、
ReplyDeleteサムエル第二5章1節~10節。目に留まったのは7節と9節に書かれてある「ダビデの町」。
新訳聖書では「ダビデの町」というとベツレヘム。ベツレヘムはダビデの出生地であり、イエスさまのお生まれになられた町でもあます。
今日の聖書箇所の「ダビデの町」はエルサレム。新訳聖書の「ダビデの町」はベツレヘム。
NIVで「ダビデの町」を見てみました。
今日の聖書箇所の「ダビデの町」はthe City of David。新訳聖書の「ダビデの町」はthe town of David。ここでcityのCが大文字になっていることに気づきました。で、Cityイコール神さまかと。
先生もご注目されておられる通りにダビデが王になった時、エルサレムにはダビデと主がともにおられたのですね。つまり町そのものが神さまということでthe City of David。
イエスさまがお生まれになった時は、ベツレヘムには神さまご自身がおられたので、文字通り町という意味でのthe town of David。
強引な解釈ですかね…。
J兄
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ReplyDeleteJ兄、
ReplyDeleteうーん、確かにちょっと強引かもですね。
詩篇46篇を思い出しました。
「主がそのうちにおられるから、都は動かない。」
主がいてくださることは救いです。