暖かくなりました。
朝はちょっと寒かったですが、
昼間は20度を超えて、本当に春本番です。
明日も晴れて、暖かくなります。
イースターの前ですが、今年の春は勢いがあります。
4月になって、日本では新しい年度が始まったんですね。
私も人生の6割日本でしたから、自然と4月は新しい気持ちになります。
ですから、このブログもいろいろ考えることもあり、
新しく歩み出そうと思っています。
その一つは、「日々のみことば」が毎日更新できなくてもとらわれない、ということです。
・・・昨日もそうしたのですが、何日かまとめて書く、または飛ばす日もあるかもしれません。
ほかにもいろいろあるのですが、
何よりも自分の中で大切だなあと思うのは、
「わくわくしないなら、更新しない」ということです。
楽しまないと、楽しくないですからね。
月曜日にMITSUWAで待ち合わせがあって、
早く着いていたので、本屋さんで、立ち読みをしていました。
というか、いすもあるんですよね、あそこ。
2冊、ぱらぱらとめくっていたのですが、
渡辺淳一さんの「鈍感力」
そして、香山リカさんの「しがみつかない生き方」
両方話題になった本ですよね。
で、「鈍感力」の方は、「こまかいことにとらわれないで、環境に適応した生き方が必要」ということを言っているみたいですし、「しがみつかない・・・」は、何にでも意味を求めたり、こだわったり、一生懸命になったりしない生き方を勧めているようです。
で、両方共感する部分が多かったのですが、
それよりも感心したのが、本の題の付け方。
「環境適応力」じゃあ、誰も買わないですよね。
それを「鈍感力」という言葉で表したから、
私みたいな、「鈍感コンプレックス」を持つ人たち・・・つまり、鈍感なんだけど、「自分が鈍感なことにも気がつかない」という筋金入りの鈍感になりきれなくて、自分が鈍感であることを気にしている人たち・・・に「ああ、鈍感でもいいんだ!」と一歩間違えば、とんでもない勘違いになりそうな勇気を与えてくれる本になったんですよね。
「しがみつかない・・・」も「こだわらない」とか「肩の力を抜いて」とかやったら、ダメなんでしょうね。「しがみつかない・・・」というちょっとアクの強い言葉だから、「これおもしろそうだな」と思わせる。「自分はしがみついているかなあ」という人も、「しがみつく生き方は嫌だよねえ・・・」と思っている脱力系の人も、ちょっと読んでみようかな、と思う。そして、最後の章が「『勝間和代』を目指さない」だから、こりゃまた痛快。本人が狙ったのか、編集者が狙ったのか、わかりませんが、話題作りになりましたね。
ああ、欲しいなあ、そういうビビッとくる言葉が沸いてくる頭。
ちょっと、この先、挑戦してみよう、っと。
でも、神様の言葉はそういう言葉ですね。
私たちの心をわしづかみにしてしまう言葉。
その言葉を預かっているんだから、その言葉の力を台無しにしないようにしないと。
さて、明日はGood Fridayで、イエスが十字架にかかった日。
今夜はイエスが最後の晩餐で、弟子たちの足を洗った晩であり、
またゲッセマネで血の汗を流して祈られた夜です。
今日の聖書は、マタイ27:27ー44。
「もし、神の子なら、自分を救ってみろ」40節
「イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか」42節
「もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」43節
3つの「もし・・・なら、・・・しろ」というあざけりの言葉ですが、
驚くことに、その「・・・なら」の部分は全く当たっています。
・・・そしてその後の部分が的外れなのです。
ここに人の思いと神の思いとの違いを見ます。
人々は大きな思い違いをしてました。
ペテロがイエスの受難の預言を聞いて「先生、そんなことがあってはなりません」と言ったときに、イエスは「引き下がれ、サタン、あなたは神のこと思わずに人のことを思っている」と言われました。
神様の救いの計画と、人々の「救い」についての考えは違いすぎました。
私はどうだろうか?と思わされました。
神様の考え、神様の計画に気持ちを向けているだろうか、そこに集中しているだろうか?
神様はイザヤ書55章で、「御言葉」こそ、全く見当違いのことを考えている私たちに、神の思いを伝えるものであることを宣言されています。
私はどこに心を向けているだろうか?
神様の御声を聞かせていただきたい、聖書から語っていただきたい、そのように思います。もっともっと真剣にもっともっと飢え渇きをもって、「主よ語ってください」と求めていこうと思いました。
主よ、
私があなたの声を聞いていくことができますように。
あなたのみ思いに心を向けていくことができますように。
そして、私のうちにも、言葉を与えてください。
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