今朝までは、雨が残っていましたが、
次第に空は明るくなり、
夕方にはすっかりいい天気になりました。
明日からはしばらく晴れて暖かくなりそうです。
というか、汗ばむようなひもありそうです。
今週は受難週。
明後日はイエスが十字架にかかったGood Fridayです。
ですから、教会の皆さんには、「イエスの十字架を覚えながら、イエスがどんな思いで十字架に進んでいかれたのかを思いながら過ごしましょう」とアピールをしています。
でも、それはまた自分に対するメッセージでもあります。
一番弟子であったペテロがイエスのことを3回も知らないと言ってしまう。
もちろん、それは本意ではなかったわけです。
でも、彼は女中さんに「あなたはイエスの弟子でしょう」と言われて、
あわてて、イエスを否定するのです。
「何を言っているんだ?」と。
ある意味、不意をつかれたのだと思います。
パニックを起こした、と言ってもいいかもしれません。
今日も、自分も同じような弱さを持っていることを思い知らされています。
私も、とっさのときに、正しい答えができなくなることがある。
本当の気持ちとは裏腹な答えをするときがある。
もちろん、「どちらが本当の気持ちなのか?」と問われると、
またどちらなのか、本当に心許ないのだが、
どうにも気持ちが苛立ったり、慌てて逃げ腰になってしまったり、
そんなことがある。
十字架にかかられたイエスの弟子だなんて、恥ずかしくて言えやしない、そんな自分の姿に愕然とするのです。
ああ、また神様の憐れみしかない。
そんなことを思わされます。
さて、日曜日から今日の分までの「日々のみことば」の中で思わされたこと。
マタイ26:57ー27:26。
イエスの裁判の様子が出てきます。
27章の最初のところにはイエスを裏切ったユダが、
イエスを売った祭司たちのところに「私は間違っていた」と言いに行ったところ。
それに対して、彼らの答えは「知ったことか」でした。
「自分たちには関係ない」ということでした。
そして、その後に出てくる総督ピラトの態度も、
「私には責任がない」というものでした。
彼の妻は「関わらないでください」ということでした。
逃げたい気持ち、面倒なことに関わりあいたくない気持ち、
そんなところは、ないだろうか?
逃げてしまったことがどれほどあっただろうか?
それに対して、イエスは私たちのために、
面倒なことに関わってくださった。
面倒を面倒と思われないで、関わってくださった。
十字架まで行ってくださった。
感謝。
私も、そのような歩みをさせていただきたい。
主が歩まれた道に、一歩でも近づいて歩みたい。
主よ、
あなたが私に持ってくださった関心を、
私も人々に対して持つことができますように。
あなたの愛には到底届きませんが、
でも、あなたの愛を映す者とならせてください。
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