2010-03-30

自分と切り離せないものと切り離せるもの。

今日は朝になってから、がんがん降りました。
昼頃、ちょっと出かけるところがあったのですが、
道があちらこちらで冠水。
車高の低い車は水没するんじゃないか、というところもありました。
うちの近辺は前回の大雨、暴風の比ではなかったですが、
場所によっては、同じくらいひどかったみたいです。


明日は回復に向かい、明後日からは春本番になりそうです。


今日は、ある方と、私にとって、また相手にとって「牧師」という前提のないひとときを過ごしました。本当に幸いなひとときでした。親のこと、NJでの生活のこと、子供の教育のこと、自分の将来のこと、いろんなことを語り合いながら、また互いの言葉に耳を傾けながら、初めてお会いしたことを感じさせない時間でした。


そんなときを過ごしながら、「私」と「牧師」ということは、切り離しうることなんだなあと思いました。いえ、ずっと切り離していられるかはわかりません。神様の与えてくださった使命だと思っているので、たぶん、ずっと「牧師」でない自分を生きなさい、と言われると、無理かもしれません。でも、ひととき、「牧師」であることを置いておいて、一人の「人」として人と対することはできる。そして、それがまた喜びだったりする。でも、「クリスチャン」であることは、自分と切り離せない。それはひとときも。それは「自分」であることの一部なんでしょうね。


もしかしたら、やっぱり、ちょっと肩に力が入っているかもしれないな、と思います。もっともっと、自分であること、もっともっと、神様が造ってくださった自分であること、そこに平安をいただいて歩んでいきたいと思います。


今日のような時間、もっともっと造っていこうと思いました。


さて、27日(土)の聖書。
土曜日はマタイ26:47ー56。


「そのようなことをすれば、こうならねばならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」54節。

祈りの中で、「できればこの十字架を負わなくて済むように」と願われたイエスが、ここでは、「いや、私はこれを負わなければいけないのだ」とはっきりと十字架に進んで行かれていることがわかる。なんとしてもこの御言葉が成就されなければ・・・というところに立っておられた。

やはり、それは祈りの中での答えだろうと思う。
確信と平安がイエスの中にあった。

自分はどうだろうかと思う。
確信と平安が与えられるまで祈っているだろうか?

人の言葉や、周りの態度によって、
「それもそうだなあ」と変わってしまうような祈りの答えはないだろう。

状況や人の答えではなくて、
主の答えをいただいて歩んでいきたい。
主が導かれてるところに歩んでいきたいと思います。


主よ、
祈りの中に答えを与えてください。
あなたの与えてくださった答えに従って歩む者とならせてください。
あなたの答えをいただくまで、何度でも何度でも、祈らせてください。

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