2010-02-03

勇士。

(この文章は函館に向かう列車の中で文章を打ったのですが、アップロードは日本時間の2月4日朝、大阪からです)

2月2日函館に向かっている特急の中ですが、青森県に入ってからまた雪が降っています。

2月1日の夜は仙台で、NJの教会の方のお父様の前夜式(通夜)。
お父様もクリスチャンだったのですが、本当に素晴らしい式でした。

「生きるにしても、死ぬにしても、キリストがほめたたえられるため。」(ピリピ1:20)との御言葉通りの生涯であり、その最期だったことが、人々の口によって証されました。最後の10日間は神様に感謝、そして、出会いに感謝、皆さんへの感謝で溢れていたそうです。そして、最後の時、腕に着いていたセンサー類をすべて取りは外して、酸素マスクを自分でしっかりと取り外して、「私は主の御許に行くのだ」という気迫に、周りの人々は敬意を感じて何もできない、決して止めることなどできない瞬間だったそうです。そして、主の許に召されて行かれたそうです。異常に気がついた若い研修医が「どうして酸素マスクを外しているんですか?」と慌てていたそうですが、それが周りにいた人々にはとても場違いに聞こえていたということでした。聖なる瞬間だったんですね。「聖徒の死は主の目に尊い」(詩篇

たくさんたくさんのことを伺いました。

教会の次の時代を担う若い世代への思い、子どもたち、孫たちへの思い、愛と信仰にあふれた勇者でした。

このように生き、このように走り抜きたい、と思わされた夜でした。

129日金曜日の聖書。
マタイ12:1-13

「わたしが好むのはあわれみであって、いけにえではない」6節。

わたしは何を伝えてきただろうか?
神様が求められる献身よりも、
神様の愛を語ってきただろうか?

献身も神様の愛を土台にすることを語ってきただろうか?

そして、そのように生き、
そのように教会を形成してきただろうか。

語っているメッセージでは確かに、
いつでもいつでも、
「恵みは信仰に先立つ」
「献身は恵みの結果、救いの結果」
と語ってきたけれども、
そのように自分も生きてきただろうか?

言っていることとやっていることがぜんぜん違う、
言葉では恵みを語りながら、
態度では恵みのない献身を要求している、
そうなってしまってはいなかっただろうか?

神の恵み、神の憐れみを徹底的に語る者とならせていただきたい。
そして、そのように生きる者とならせていただきたい。

主よ、
あなたの恵みをもっともっと経験させてください。
そして、その恵みによって生きる者とならせてください。
恵みに徹底する者とならせてください。
献身もいつもいつも恵みへの感謝となりますように。

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