自分は親父とゆっくりじっくり話をするのは苦手だ。
親父の話をじっくりゆっくり聞くのが苦手だ。
照れくさい。
でも、父の世代のお父さんたちの話を聞くのはスゴク楽しい。
今回も何回かそういう機会がある。
で、おべっかでも社交辞令でも何でもなく、
わくわくしてくる。
親父となかなかそれができないからだろうか?
わたしは伝道者であることを忘れて、
一人の人間として、一人の若者(ずうずうしい?)として、
その世代の人達の話に耳を傾け、
もっともだなあ、と思いながら、時を過ごす。
もちろん、時々、聖霊様の導きをいただいて
聖書の話をしたり、自分の証をしたり。
でも、そんなのは時間としたら5分の1くらい。
人生の重みも何倍も向こうがあるんだから。
でも、伝道ってすべてそうなのかもしれない。
いつもは「伝道するぞ!」と肩に力が入りすぎているのかもしれない。
46歳の平凡な男として、
自分の2倍近い人生経験を積んできた方々の言葉に耳を傾け、
その人生の重みに触れて行く中で、
主に信頼して、用いていただくのを待ち望んでいく、
それが伝道なのかもしれない。
いや、人生経験も何も関係なく、
そのひとつの大切な人生に寄り添っていく、
それが大切なのだ、
そう思った。
1月31日日曜日。
マタイ12:22-30。
「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」24節。
この人々の愚かさ。
素直に神様の御業を認めようとしない愚かさ。
明らかにイエスが神の力によって悪霊を追い出しているのに、
それを悪霊の頭の力によっているのだと、
そう思い込んでいる。
いや、彼らもどうしても認めたくなくて、
悪霊の力だとと言わないでいられなかったのだと思う。
自分はどうだろうかと思わされた。
自分はそのようなことはしていないだろうかと思わされた。
「どうしても認めたくないこと」あるのではないだろうか?
何が邪魔をしているのだろうか?
霊的なプライド?
傲慢さ?
本当に謙遜なものでありたいと思う。
霊的なことについて、
知らないことを知らない、
知りたいことを知りたい、
そのように謙虚に言える者となりたい。
主よ、
あなたの御業を見逃すことがありませんように。
今回の日本訪問においても、
主よ、あなたの御業を見逃すことがありませんように。
そして、あなたのなそうとしておられることを、
敏感に知る者とならせてください。
そして、そこに従っていくことができますように。
謙遜にあなたの御業に驚く者でありますように。
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