2009-09-25

祈る喜び。

朝9時です。
今日の朝の祈りの一時は本当に幸いなときとなりました。
時間が来て、そこから立ち上がるのがもったいない、と思うようでした。


若い頃、「祈り抜いた!」と思って、立ち上がった、
幸いな祈りの時を経験したときとは全く違う喜びでした。
そう、たぶん、そのころは、「祈り抜いた自分」に焦点が当っていたんだと思います。
いわゆる「何かをやり遂げた充実感」みたいなものだったのでは。


でも、今朝は違いました。
主と時間を過ごす幸い、
いろんなことを相談して、主の考えを聞きたい、という思い。


それが単なる独り言や、自分の心の中だけで巡っている思い、
ではなくて、確かに主はここにいてくださって、
答えを与えてくださるんだ、という感覚。


決して今日初めてではないのだと思います。
以前にも同じようなことを書いていると思います。


でも、今日、またそこに連れて行ってもらいました。


教会の一人一人、私の周りの一人一人の方々のことを覚えて祈るときに、
仕事のこととか、家庭のこととか、健康のこととか、経済のこととか、
それらよりも、一人一人の霊的な状態というか、魂の状態というか、
神様との関係、神様にどんな思いで歩んでいるか、とか、
そちらの方に心が向いている自分がいました。


ああ、もっともっと神様と時間をシェアしたい。
もっともっと私の気持ちもシェアしたいし、
神様が一人一人のことをどのようにご覧になっているかを
シェアして頂きたい。


でも、教会の帰りの車の中でも、
決して、聖霊様を教会に置き去りにして帰ってきている感じはしませんでした。
聖霊様と一緒に車を運転して家に向かっているんだ、と思いました。


陳情団が一生懸命「そこを何とか・・・」とか言っている、
そんな祈りから、一つの書類を一緒に見ながら、
「これはどうなんでしょうねえ」なんて相談してるような、
そんな祈りに導かれているように感じます。


さて、おととい、9月23日(水)の聖書。
エレミヤ9:17-26でした。


「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」24節。

今朝も、Max Lucadoの"Fearless"の2章を読んでいたのですが、
何かを誇らなければいけない、ということは、
やはり、自分が不安なんだと思います。

自分が自分であることが不安。
自分が自分であることに自信が持てない。

自分もいばりんぼうですから、
本当によくわかります。
そんなもので自分を飾らないと、
自分の存在意義を保っていることができない。

でも、本当に神様に愛されていることを
何かをする前に、何かがなかったとしても、
神様に愛され、認められていることを本当に深く知っていくときに、
自分自身で、平安でいられるんだろうと思います。

ただ、神様を知っている、
もっと言うならば、神様のわたしたちに注がれている愛を知っている、
そのすばらしさ、その意味の深さをもっともっと自分の一部として、
経験していきたいと思わされました。

主よ、
あなたを知っている幸いを感謝します。
あなたがどんな方か、あなたがどんなに大きな愛をもって、
私の人生を導いてくださっているか、
教えてくださって感謝します。
もっともっと、そのことが私の身になりますように。
私の一部になりますように。
その喜びに生かしてくださいますように。
言われなくても、「私の誇りは主です」
「私の誇りは神様に愛されていることです」と、
高らかに宣言して、生きる者としてくださいますように。

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