2009-09-08

「理想的な教会?」

夜になりました。
順調に気温は下がって、今8時半ですが、20.7度。
曇っているおかげで冷え込みはしませんが、
朝は15度くらいまで下がるでしょう。


今日、自動的に録画されていた昨日のフジサンケイのニュースに
9月3日の記事に書いた、ハジの大学のSwine Fluの話が紹介されていました。
残念ながら(?)ハジは出てきませんでしたが、
ニュース自体はこちらのリンクから見ることができます。
さっき電話で話したら、結構周りにも感染した友だちがいるようです。
心配はしていませんが、元気でやっていて欲しいものです。


ついでに9月3日のニュースのアメリカの公的資金を受けた企業のCEOの平均年俸の話を見ましたが、1300万ドル以上!?だって。ひどーい。預金しても、金利はほとんどないような状態なのにねえ。どういう感覚なんでしょう。フツーの感覚が麻痺しているんでしょうか?


腹が立つ話はこれくらいにして、
神様に取り扱われた話。
修養会の最後の集会は、
「理想的な教会」という題のメッセージ。


普通、このような話だと、
整えられた教会の話になるかと思ったら、
趙先生が話してくださったのは、
「理想的な教会は、病院に病人が行くように、問題を持っている人が行きたくなる、そのような人が受け入れられる教会です」ということでした。
これは自分にとって、開会礼拝の中で自分が話した、「私たちの常識にチャレンジする」神の御業でした。
最近の私は、いろんな出来事を経験してきた中で、
無意識の中で「いい人」の教会を目指していたのかもしれません。


問題を恐れて、問題が起きないようにと一生懸命だったのかもしれません。
教会は霊的な病院である、というメッセージに本当に悔い改めさせられました。


Jim Cymbalaは「祈り会は霊的なERである」と言いました。




神様の救いの御業を見せて頂けるように、
祈りつつ歩んでいきたいと思いました。



趙先生が神様の導きを感じて、
メッセージの後に、牧師夫妻のために祈ろう、と
皆さんを招いてくださいました。
その後、役員のために祈り、お互いのために祈る幸いな一時となりました。
「教会」を感じた一時でした。
感謝します。


さて、日曜日、9月6日の聖書。
エレミヤ2:29-37でした。


「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」32節。

おとめのたとえ、花嫁のたとえは、
かれらは、本当に「あたりまえ」のように、
自分にとって大切なものを大切にして、忘れない、というたとえですよね。
それに対して、イスラエルの人々は神様を忘れてしまっていると。
それを本当に自分の生活に当てはめてみると、
もしも、神様を忘れてしまっている瞬間があるとするならば、
それは、本当に神様が「自分にとって大切な存在なんだろうか」
本当に自分は神様を大切思っているんだろうか、
それが問われているように思いました。
「神様のことを忘れないようにしなければいけない」ではなくて、
「神様のことを忘れるはずがない」というのが本当なんじゃないかと。
だったら、「忘れないようにがんばろう」「忘れないように気をつけよう」ではなくて、やはり、神様の愛、神様の救いの素晴らしさ、神様に愛され、罪赦され、生かされていることの素晴らしさをもっともっと深く知って、自然に「神様のことを忘れるわけがない」という思いにとらわれるようになることを求めるべきなんじゃないかと思ったのです。
主がどれほど大きな愛を持って、私たちを神の子としてくださったのか、
どれほど大きな犠牲を払って、私たちの罪を赦してくださったのか、
私がもっともっと深く知ることができますように。
私がもっともっと深く味わうことができますように。
主よ、
あなたの愛を感謝します。
あなたの救いを感謝します。
もっともっと深くあなたを知る者とならせてください。

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