2009-06-02

Fairnessにどこまでこだわるか?

今日は朝から昨日よりも暖かく、
ちょっと蒸し暑いくらいの一日でした。
7時半頃から9時前(!)の暗くなるまで、
昨日の芝刈りの続き(裏庭はいつも後回し・・・)をしたのですが、
昨日よりも汗をかきましたし、
汗をかいたあとの爽快感も昨日の方が上でしたね。


明日は一日中雷雨の可能性です。


今日は、芝刈りをしながら、
Andy StanleyのLeadership Podcastを聞きました。
去年の10月6日のもの。


その中で、Fairnessにこだわりすぎることの問題が語られていました。
Fairnessにこだわりすぎるあまり、
「みんなにできないから、誰にもしない」ということを、
リーダーはしてはいけないと語っていました。


Fairnessは聖書的な概念ではない・・・とも。
Fairnessはエデンの園では存在したが、
人が罪を犯したあとは、Fairではあり得ないと。


確かに、自分もそのようなところに陥ることがあることを感じます。
Fairnessを重んじるあまり、「みんなに同じように接しないと・・・」と、
特定の誰かに必要な言葉や、助けをためらってしまうことがあります。


でも、神様はみんな一人一人違う存在として造られたのだから、
一人一人、必要も違うんですよね。


人の反応を恐れないで、
神様からの声を聞きながら、仕えていく者でありたいと思いました。


でも英語なので、ちょっと集中力が切れると、
すぐわからなくなります。
もう一回ゆっくり聞いてみようと思います。


さて、土曜日、5月30日の聖書。
土曜日は出エジプト記25:10-22。


「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」22節。

主が私たちに語られるのは贖いのふたの上から。
新約の時代に生きる私たちにとっては、
イエスの十字架から。

神様はそこから語られる。
十字架を通してだけ、
私たちは神の前に立てる。

「狭い門から入りなさい」とイエスは言われたが、
本当に狭い門だ。
「もっと広い心を持ったらいいのに」と言われそうだが、
ここにこだわり続けることの大切さを、
もう一度教えられた。

主がそこから語られるならば、
そこに注目しよう。
そして、十字架に聞いていこう。

主よ、
十字架の恵みに感謝します。
十字架から語られるあなたのみ声を聞き続けます。
そこに今日も注目します。
どうか、語ってください。



2 comments:

  1. みんなに平等なんて。。機械ではないのだから有り得ないことです。 

    それが出来ないなら何もしないっていう発想もよく分かりません。

    それぞれの関係の中で、真実を尽すことが出来たらいいかなって思います。

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  2. Anonymousさん、

    そうですね。
    もしも、ご興味があれば、是非Podcastお聴きになってください。

    でも、本当に難しいですよね。
    「あの人はこうしてもらったのに、
    私はそんな風にしてもらえなかった・・・」という気持ちになる方が、
    どれくらいおられることか・・・。

    でも、イエスが十二弟子を選ばれたときにも、
    イエスはあえて、ボランティアを募らなかった。
    イエスが祈って、
    イエスが弟子たちの中から十二人を呼び出された。
    それによって、「何であの人が選ばれて私は選ばれなかったんだろう」という人もいたと思います。
    イエスはそんなリスクも負われて、
    あえて十二人を特別に選ばれた。
    十二人を訓練して、彼らによって教会を建てるために。

    リスクを負う勇気。
    先を見るビジョン。
    大切なことだと思います。

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