もう、晩秋なみですね。
うちの中は、何とか17度くらいですから、
真冬の暖房が18度に設定してあることを考えると、
まあ、もう少しがんばれるかなあ、というところ。
でも、底冷えします。
夕方、人が増えて、料理で火を使うようになって、
なんとか、20度くらいまで上がってきました。
今夜は余り冷え込まないみたいです。
そして、明日は南風が入って、暖かくなるそうです。
ですから、今回はなんとか暖房なしでしのいだ、って感じでしょうか?
次の波は来週の後半に来そうです。
そこまでは未だ暖房は必要なさそうです。
さて、今日の朝の集会は、「締め切りのある仕事と、ない仕事どっちが好き?」という話。
私は圧倒的に、ある仕事が好きです。
というか、ない仕事は・・・いつまでたってもできない方です。
でも、今日の皆さんの結論は、「締め切りのない仕事なんて、ホントは何もない」ということでした。
・・・ですよね。
わたしたちの人生自体、自分は知らないだけで、必ず終わりが来る。
いつでも、その備えができていないといけない。
イエスはそのように言われています。
だから、いつでも、毎日が締め切りのようなつもりで、
一日一日、「まだ時間がある」なんて考えないで、
準備していかなければいけませんね。
さて、昨日、10月1日の聖書。
昨日はエレミヤの13章12-19節。
「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。」17節。
今日はこのエレミヤの姿から、エレミヤの愛を感じた。
高ぶっている人々のために泣いたエレミヤ。
自分はこのような愛を持っていただろうかと、思わされた。
自分は彼のように、高ぶる人々のために泣いてきただろうかと。
悩んでこなかったかというと、悩んできたと思う。
何とかならないかと、祈ってきたかというと、祈ってきたと思う。
でも、泣いてきただろうか?
その行く末を案じて、泣いてきただろうか、
その信仰の歩みを心配して泣いてきただろうか?
ああ、自分には愛がないなあと思わされた。
無関心でいたかというと、そうではないだろう。
でも、彼のような愛があったかと言ったら、
愛がなかったんだなあと思う。
逃げてきたのかもしれない。
高ぶる人々のことを心配するだけではなく、
その人々のために祈るだけでもなく、
彼らのために泣くほどの愛をもって愛していけますように。
主よ、
あなたの愛を与えてください。
エレミヤの愛を与えてください。
高ぶる者のために泣ける者とならせてください。
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