2008-09-14

主に仕える。

今日は一日天気は守られて、
蒸し暑いながらも、暑すぎず、いい天気になりました。


夜になっても22度くらい。
ちょっと蒸し暑い夜です。
明日は夏の最後の一がんばりでしょうか、
30度を超える暑い日になると思います。
雨は大して降らなさそうです。


今朝未明にテキサスに上陸したハリケーン・アイクですが、
駆け足で北上して、残骸になりつつあります。
昨日書いた高潮、英語ではstorm surgeといいますが、
予想されたほどひどくはなかったようです。
それでも何人かの方々は亡くなっているようですが・・・。


でも、それで避難しなくても、助かった人たちが
We are survivors!なんて騒いでいるのを見ると、
怒りを覚えます。


そして、次にまたハリケーンが襲ってきたときに、
「前も大騒ぎしたのに大丈夫だったから・・・」
なんて人が出ないようにと祈ります。


警告を出す方も、「言われていたほどじゃなかったじゃないか」
「避難しなければよかった」と言われるのは心外だと思いますし、
頭にくるでしょうが、これからも是非、恐れないで警告を出して頂きたいと思います。


今日の夜は男性の弟子訓練会。
今、2-3人のグループが4つがあって、またこれから増えそうですが、
男性のグループは今のところ1つ。


内容についてはプライベートなことについては絶対口外禁止なんですが、
本当に今日はいろいろなことを考えさせられました。


イエスの弟子として生きる中で、
「仕える」ということはどういうことを求められているのか?
そんなことが話題になりました。


人に見られなくても、認められなくても、
集会の最後に「こんな方がこんな奉仕をしてくださった」と
みんなの前で言われなくても、
個人的に、言われなくても、
誰も気がつかなくても、
誰ひとり気がつく人がいなかったとしても、
主が与えてくださった奉仕を感謝してできるだろうか?


また「主のために」ってがんばっているときって、
本当は主のためじゃなくて、「自分のため」何じゃないかって。
本当に主を愛していたら、
「主のために」なんて力が入ることはないんじゃないかって、
そんなことを話しました。


仕えること一つとっても奥が深いですね。


「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。ルカ17:10。


さて、金曜日、9月12日の聖書。
金曜日はサムエル第二6:12-23


「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。」14節。

ダビデには人の目にどう見えているかはどうでもよかった。
神さまの前に踊りたかった。力一杯踊りをもって神さまを賛美したかった。

人の目が気になるときがある。

人のことを考えて、手を挙げて歌ってくださいと言われたこともある。
人のことを考えて、手を挙げないでください、と言われたこともある。

結局人のことを考えていたら、どっちも難しい。
神さまとの関係の中で、
神さまへの礼拝を心からささげて、
神さまとの関係に集中して、
生きていきたいと思います。

人への配慮も大切だと思います。
でも、それはわたしを振り回したり、
わたしがそれに支配されてはいけないですね。

このダビデのように、
「わたしは神さまに賛美をささげたんだ!」と言いきることができるような、
本当の賛美をさせて頂きたいと思います。

主よ、
心からのあなたへの賛美をささげさせてください。
明日の礼拝で、まずあなたの前に出て、
ささげる賛美が真実なものとなりますように。
人の目ではなく、あなたの目を気にするものでありますように。

2 comments:

  1. かきごおり先生、

    >ゲート間違えて、間に合いましたか?
    ↑昨日は無事フライト乗れました。


    サムエル第二6章12節~23節。目に留まったのは20節より、ミカルの言葉。


    僕(=日本人)の勝手なイメージからすると、この箇所はダビデが阿波踊りを狂ったように踊るという映像が目に浮かんでしまいます・・・。さらに裸おどりだったというのが可笑しいです。


    と考えると、ミカルの気持ちも分からないのではないのですが。


    聖書を学ぶ際に、その時の時代背景や人々の慣習、その土地の特徴などの諸情報を持ち合わせずして、自分の勝手なイメージや思い込みで解釈するのは良くないですね。

    分かってはいるものの「ダビデは踊った=阿波踊り」どうしてもこのイメージが頭から離れずに仕方ありません。

    えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々・・・。

    J兄

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  2. J兄、

    そうですか!私も実はこの場面は阿波踊りの情景が浮かんでくるんですよね。
    阿波踊りは神さまへの感謝と礼拝ではありませんが・・・。

    自分のイメージで聖書に読み込むことどれだけあるかと思います。
    でも、その自覚が大切なんでしょうね。
    自分の解釈が唯一の正しい聖書のメッセージだと言い切る人が時々いますが、ホントに危険だと思います。私たちは誤り易いものだと、読み込み的解釈をしやすいんだと、わきまえて、人の言葉にも耳を傾ける姿勢を忘れないでいたいと思います。

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