2008-08-04

祈られている幸い。祈らせて頂く幸い。

午前中に・・・なんて昨日は書いていたのですが、
気がついたら、もう夕方。
一日寝ていたわけではありませんが、
ゆっくり休ませて頂きました。

今朝もとても気持ちのいい朝。
先週修理したAttic Fanのおかげで、
夜も、午前中も、エアコンなしでも家の中は快適です。

昨日の日曜日、
午前中はコネチカット州の日本語教会の礼拝で、
メッセージをさせて頂きました。


自分が牧師をしている教会では、
「その話、50回目・・・」と言われないかと、
気にしているところはあるのですが、
ゲストで迎えられるところでは、
そういう心配をしなくていいですよねえ。
かなり調子に乗って馴れ馴れしくお話ししていたかもしれません・・・。


そして、午後はJCCNJに戻って、2回のメッセージ。
8月から新しい任期なので、
初めてのことでしたが、任期の更新にあたって、
改めて就任式をして頂きました。


教会の皆さんに前に出てきて頂いて、
私のために祈って頂いたのですが、
いつもいつも祈ってくださっていることは知っているのですが、
そのように特別に時を作って頂くと、
心から、それを実感することができます。


祈られている幸いを体いっぱい感じておりました。



ですから、今朝、また教会に行って祈るときに、
「ああ、私はこのためにここに置いて頂いているんだなあ」と
思わされて、お一人ひとりのことを祈らせて頂く幸いを感じました。


むかーし、
親父が、「牧師の幸せは、みんなのために祈らせて頂くことだ」と言っていたことを思い出しました。
20歳そこそこの私には余りよくわかりませんでしたが、ここに来て、やっと、ちょっとわかってきたように思います。

さて、昨日の聖書。
昨日はコリント人への第1の手紙16章1-12節。

「しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。」(8-9節)

広い門が開かれていることと、
反対者が大勢いることは、
なんだか正反対のことを言っているようにも思えます。

でも、働きの道が開かれているところでは、
それだけ反対の力も働くということなんでしょうね。

だから、反対者が大勢いるからと、
あきらめてしまったり、
ストレス回避で逃げてしまったりすると、
それは本当に大切な働きのチャンスを逸してしまうことになるんだと思います。

主が導かれるところで、
思いっきり、主を恐れるべきことを語り、
主の恵みと愛とを語る者でありたいと思います。

祈られているから。

主よ、
あなたが与えてくださっている祈り手の故に感謝します。
どうか、私を守り支えてください。
また困難や反対があっても、
すぐにあきらめてしまうことがないように、
逃げてしまうことがないように守ってください。
 

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