2008-06-14

孤独。

今日は蒸し暑かったです。
そして、午後には雨も降ってきました。
夜には雷がすごくて、
一回は地響きを感じるくらい近くに「ドカーン」と落ちました。
停電にならないのが不思議なくらい。

明日は涼しくなってくれると思います。

最近読んでいるMax Lucadoの「心の重荷に別れを告げて」で思わされたこと。
この本、一つの主題と言うよりは、
詩篇23篇からいろんなことを言っているように感じるのですが、

詩篇の23篇4節の「あなたがわたしとともにおられますから」から、
彼がこう言っています。

「もし、人がいることで寂しさが癒されるなら、現代は孤独感は減っているはずだ。だが寂しさはなくならない」
「あふれるほどの教会員に囲まれていてさえ、人は孤独感を抱き得るのだ」

でも、その中で、孤独感を否定的なものとしてしか見ないのは違うのではないかと、彼は言うのです。

「寂しさは呪いではなく、贈り物にならないだろうか。神からの贈り物に」
「ぼくは、寂しさを使って神は僕たちの注意を引こうとしておられるんじゃないかと思うんだ。」

そう、人の中での孤独を感じたときは神が共にいてくださることのすばらしさを感じるチャンスなんだと。

心の中に平安があふれてくるのを感じました。
神様が私と共にいてくださることを、心から感謝します。

「あなたの家族があなたに背を向けることもあるだろう。でも神はそうされない。あなたの友人たちがあなたを裏切るかもしれない。でも神はそんなことはされない。荒野にたったひとりでいるような気持ちになるかもしれないが、あなたはひとりじゃない。主が共にいてくださる。」

孤独が怖くなくなりました。
もちろん、神が与えてくださる友には心から感謝しながら・・・。

さて、今日の聖書。
今日はサムエル記第一20:24-42

「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。」31節。

今日もダビデの主へのおそれと、
サウルの人へのおそれを対照的に思いました。

ダビデは、自分の命をねらっていたサウル王の命をねらおうとはしませんでした。
神様が守ってくださることを、知っていたからです。
神様が自分を選んで王として油を注がれている。

だから、自分と同じように油を注がれて王となったサウルに手を下すことは、
自分を選んだ神の御手をも否定することになる。
だから、彼はサウルに手を下さなかった。

でもサウルは、ダビデが生きていたら、自分の王の地位も危ないと思っていました。
でも、それを決められたのは神だったのです。

自分はどうだろうかと思いました。
ただただ、主に目を向けて、
周囲の状況には振り回されない強さがほしいと思います。

主よ、
どうか、私をダビデのように神を恐れる者としてください。
人を恐れることがないように守ってください。
あなたから目を離すことがありませんように。

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