2008-03-19

金の器じゃなくても・・・。

今日は朝から雨。
一日雨。
今、ちょっと止み間ですが、
また夜中に降ってくるようです。
もしかしたら雷が鳴るかも・・・。

明日は晴れ。
でも風が強くて、余り暖かくなさそうです。

そう、今日もなんだかやっぱり肌寒い雨でした。

今は9時で8度。

今年は「雪」と予報が出ても雨だったり、
暖かくなる、と予報が出ても、そうではなかったり、
ちょっとがっかりすることが多かったですね。

そういえば、子供の頃は、
「雪が降る」って予報が出ていなくても、
雪が降ったりしたこともありましたが、
最近はほんとうにないですよね。

サプライズがないっていうか・・・。

そろそろ「春のサプライズ」大雪とか、があってもいいのでは、と思うのですが・・・。

昨日紹介した本。
今日も続けて読んでいました。

今日心に留ったこと。

テモテの第2の手紙にこんなくだりがあります。

「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。 もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」(2:20-21)

その器が金や銀の器である、ということが必ずしも尊いことに用いられるのではなく、木や土の器である、ということが卑しいことに用いられるわけではない、というのです。
ただ、きよめられた器が尊いことに用いられる。金や銀の器でなくてもいい、尊いことに用いてください、と祈るのだ、とありました。極めつけの言葉は、

「神の国のぞうきんにならせてください。毎日使われるぞうきんになれますように」。

すごい。

金の器になろうとしなくていい。
尊く用いられようとしなさい。

「神の国のぞうきん」

ほんとうに心から、そのようになりたい、と思う人は何と幸いなことでしょうか。

さて、今日の聖書。
今日はルカ23:1-12でした。

「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。」8節。

この言葉を読んで、自分はどうだろうかと思わされました。
ただイエスに会いたい、何か奇跡を見たい、そんな好奇心とは一線を画すものをいったい自分は持っているだろうかと。何も違いはないのではないだろうかと。

そして、心から思いました。
イエスとの交わりを大切にしようと。
イエスに祈ることを、
イエスと共に時間を過ごすことを、
イエスに聞くことを、
イエスを喜ぶことを。

何処かの有名人に会って、
「あの人に会ったんだよ」とちょっと話の種にしたり、
ちょっと自慢したくなったり、とか、
そんなレベルでイエスとの出会いを経験するのではなくて、

「こんな奇跡を経験したんだよ」
「ゴーって言って、ワーって来て、ドカンと感じたんだ」という
レベルでのイエスとの出会いではなくて、

主との交わりの中で、語られて、生かされて、
ゆっくり共に歩む時が与えられて、
元気を与えられて、
歩んでいきたいと思いました。

ヘロデ王、イエスさまに会いながら、
イエスさまとの「出会い」のチャンスを失ってしまったこと、
とても残念に思います。

同じように自分も失わないようにしたいと思いました。

また周りの人々も、
せっかくイエスさまに会いながら、
イエスとの「出会い」を経験しないで終わってしまうとするならば、
どんなにもったいないかと思います。

主よ、
ヘロデはせっかくのイエスとの出会いのチャンスを失ってしまったこと、
残念に思います。

でも、私はどうでしょうか?
私も興味とか、好奇心とか、そのレベルで終わってしまっていないでしょうか?
イエスとの「出会い」を与えてください。

また、今度のイースターの礼拝で、
イエスとの出会いを経験する方々が起されますように。

「弟子たちは、主を見て喜んだ。」ということが、
多くの人々の中に起こりますように。

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