3月24日に読み終わりました。
もう日付が変わってしまいましたが・・・。
一日一章ずつ、というのは私の今までのスピードに比べるととても遅いのですが、
それもほんとうに必要な時だったと思います。
聖書は「神様からのラブレター」だと言われます。
ラブレターはもらったら、何度も何度も読み返しますよね。
繰り返し繰り返し、
でも、聖書を読む時には時々「義務」になっていないかと。
クリスチャンの一人ひとりが悩んだり、苦しんだりするポイントかもしれませんが、
「義務感で読むのはおかしい」
「読みたいと思うまで待っていていいものではない」
この二つの思いの間を行ったり来たりするのです。
でも、御言葉を味わう喜び、
いや、それ以上に、「御言葉によって取り扱われる幸い」を経験すると、
もっと語って欲しい、もっと取り扱いを受けたい、と思うものです。
今回の新約聖書の通読、
私にとってはそんな原点に帰るような経験でした。
そして、昨日24日に読んだのはヨハネの黙示録24章でした。
その中で心に留ったのは、
1-2節。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
時々、無性にどこか静かなところに行きたくなる時があります。
自然の中に飛び込んでゆっくり過ごしたくなる時があります。
自分にはそれが必要なんじゃないかと思う時もあります。
でも、今日、この聖書の箇所を読んで祈っているなかで、
「いのちの川は都の大通りの中央を流れていた」という言葉を読んで、
そうじゃない。主が私にいのちの水を与えて下さるのは、
決して自然の中に入っていった時とか、バケーションでゆっくりしている時とかではなくて、
この今生かされているこの場所なのだ、ということを感じました。
私は東京の下町で育ちました。
都会の川はどす黒く、悪臭を放ち、
田舎の川が澄んでいて、たくさんの魚が生きている、そういうものだと思っていました。
それを天国の川にも当てはめて考えている自分に気づきました。
天国の標準で言うならば、水晶のように光るいのちの川が、
都のど真ん中に流れている。
いま、生かされているこの場所でいのちの水の満たしを与える、と主が語ってくださったように感じました。ここで主が満たして下さるならば、大丈夫、と思いました。元気が湧いてきました。
また、日曜日、主が用いて下さることを期待します。
待ち望みます。
主よ、
あなたは今、ここにいる私を満たすことのできる方であること、
どこか静かなところに行って、祈らなければ、満たされない、
そんなお方ではなくて、
ここにいる、今を生きている私をも、満たすことのできる方であることを、知りました。
感謝します。
ここに生きる者、今を生きる者としてください。
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