2007-03-18

語り続けること

まだまだ雪が残っています。
朝は-3度くらいまで冷えましたが、
最高気温は5度くらいまで上がったようです。

でも、今は夜の10時で-0.6度。
明日の朝は-5度くらいまで下がるのでしょう。

明日はにわか雨かにわか雪があって、暖かくなり、
火曜日にはまたグッと冷えて、
でも、週の後半にはまた春めいてくると思います。

だんだん待ち遠しくなってきました。

今日もたくさんの方々と共に礼拝を守ることができました。

でも、その一方でおいでになることができなかった方々もたくさんおられました。
病気の方、
子供が熱を出したという方、
飛行機が出なくて、出張先から帰れなくなった方、
そんなことでご主人が帰ってこられなくて、家から出られない、という方、
などなど、
ほんとうに残念でした。
右側に礼拝説教のリンク貼っておきますね。

ほとんどのメンバーが当たり前のように守っている礼拝。
でも、この礼拝を守れることも決して当たり前ではない、
ということをおぼえて感謝しましょう。

さて、今日の聖書。
今日は黙示録の16章を読みました。

「こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。」9節。

「そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。」11節。

「また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。」21節。

これらを読みながら、
そうだろうなあ、と思いました。
いろんな苦しみがあったときに、神様に悔い改めるべきだということは、
このような聖書を読むと、客観的にそうだよなと思うのですが、
実際に自分がそんなことに出会うと、
「さあ、悔い改めよう」と思うだろうかと思いました。

そして、もっと深く思わされたのは、
このような状況の中で、自分は福音を語り続けることができるだろうか、
悔い改めへの招きを語り続けることができるだろうか、ということです。

人がたくさん救われていったら、いいでしょう。
人がメッセージを聞いて、「そうですね、私は悔い改めます」と言ってくれたら、
語ったかいがあるでしょう。
でも、人々は「こんな苦しみがあるなんて、神なんかいるもんか、神なんか信じるもんか!」と言うというのです。そんな状況の中で、私は語り続けることができるだろうか、ほんとうにそのことを思わされました。語り続ける者でありたいと思いました。
人がどう思うかではなく、主がどのように語りなさい、と言われているかにかかっているのだと思います。

この聖書を読んだのは朝ですが、これを書いているのは夜です。
今日の礼拝の中で、「あなたは罪人です」と語りました。
語りながら、「教会行ったら、罪人だと言われるのがイヤだ」という声を聞いたことがあることを思い出しました。「ああ、なんて自分は大胆なことを言っているのか」と思いました。でも、主が語ることを求められたことを、人の反応を見て、止めてしまうならば、自分は何のためにここにいるのだろうと思います。いつもいつも主の御心を求めながら、歩んでいきたいと思いました。

主よ、どうか私の唇を守ってください。
あのエゼキエルに対して、そのようにされたように、
私の額を「ダイヤモンドのように固い額」としてください。
人の反応に振り回される者ではなく、
あなたが「語れ」と言われることを語る者であり続けることができますように。
弱い私を支えて下さい。


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