2007-03-23

夜がないところ

まずい、最近、「脱力系牧師」でなくなってしまっているかもしれない。
このブログも固くなっているかもしれない。
今日、そんなことを思っていました。

でも、分ったんです。いいんだってこと。レッテルを気にしなくても・・・。

自分であることが大切で、「脱力」してても、「元気」でも、「気合い」入っても、
そんなのは何でもいいんだ。

主の前にホッとできる自分であれば・・・それでいい。

うん。そうだ。(妙に納得)

今日も何だか暖かいような、肌寒いような、
どんよりしたり、ちょっと明るくなったり、雨が降ったり、
スカッとしない天気でした。

そして、朝からずっと12度くらいだった気温は、
夜になってから下がり始めて夜の12時前で7度。
明日の朝には1-2度くらいまで下がるようです。
そして明日も雨。
それだけではなく、明日の夜には「s」wordが出てきています。
雨に雪が混じるだろうと・・・。

そして、再来週あたりはかなり冷え込むだろうと・・・。
春はまだまだでしょうか・・・。

明日、中高生の集まり。
「友情」について話して欲しいというのですが、
いろいろ考えさせられますね。

「間違ったことをしている友人がいたら、どうするか?注意するのが友情か?注意して友情にひびが入ることを恐れるのか?」
「『mixi疲れ』っていうのがあるらしいけど、日記に足跡残してコメント残さないのが許されないことがあって、それで逆に疲れてしまうらしいけど、コメント残さないと友人とは言えないのか?」(ちなみにかきごおり牧師はmixiやっていません。念のため。でも、知っています。mixiの場合は誰が自分のページに来てくれたか、足跡が残るということ・・・)
・・・なんてのを考えていて、中高生達がどんな気持ちで今の時代を生きているのかと思ったりね。

やっぱり中高生の時って友人関係がすべてみたいに感じちゃいますからね・・・。

でも、何でも「義務」になったらしんどいよね。
「コメント残さなきゃいけない」
「自分の日記にコメント残してくれたら、相手の日記にもコメント残さなければいけない」とかだったら、しんどいよね。

最近読んだ本の中に
「不機嫌な人」は、「自分がこうしたら、相手はこう応答して欲しい」と思っていて、
それに対して、相手が自分の期待していたような応答をしてくれない時に、
甘えた怒りを覚えて、不機嫌になる。
小さな子供だと、その要求を言葉にできるからいい。
でも、大人になったら、それができない。だから不機嫌という形で表す。
と書かれていました。
なるほど・・・と納得してしまいました。
自分もそういうときある・・・からね。

ストレートに言えばいいのにね。
「こうして欲しいんだ!」ってね。
でもそれはプライドが許さなかったりする。

相手に義務を課さない。
要望があるなら、それをちゃんと伝える。

「大切なことはみんな幼稚園で習う」ってホントだな、と思いました。

さて、今日の聖書。
今日は黙示録の21章を読みました。
いよいよ、世の終わり、世界の完成の場面です。

25節に「そこには夜がないからである。」とあります。

その言葉が心に留りました。

もう夜はない。見えないところはない。
トンネルの中に入って出口が見えない時もない。
不安で不安で、ほんとうに夜は明けるんだろうか、という日もない。

そして、その新しい世界を照らす光は主ご自身だというのです。

そう、主が今、私たちと共にいて下さるのとはレベルの違う近さで、共にいて下さる。
それだけで楽しみで楽しみでしかたがない。

また「天国へ行きたい病」が始まってしまいそうだ。
「この世の天国」も捨てたものではない。
この世で神様と共に歩んでいく「この世の天国」もすばらしい。

でも、「あの世の天国」はダンチ(死語?)なんだろうな。
もっともっと神様を近く感じられるのだから・・・。

主よ、
天国の約束を感謝します。
あの世の天国で、あなたが世界を照らす光となって下さることに希望を持ちます。
でも、どうか、この世で、その天国のかけらを見つけていくことができますように。
この世にもあの世の天国のforetasteである「この世の天国」があることを感じることができますように。


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