そして、少し肌寒かったですね。
でも、明日からはまた晴れるようです。
暖かくなるでしょう。
もう4月も終わりますからね・・・。
暖かい日が続いてほしいものです。
でも、今年は花粉症楽かも・・・
治ったかも・・・
・・・って毎年言っているかも・・・。
さて、先々週の週末に家族で行ったコンサートで下の娘が「これ知っている」と喜んでいたのが、「オペラ座の怪人」の中からの曲。それで、先週一週間休みだったので、「ファントムのビデオみたい」といいだして、図書館に借りにいくことに。
ウチの町の図書館、なんと日本語の本やビデオいろいろあります。(これはホント)
で、何かないかなあ、と物色して出会ったのが、20年前のこのドラマ。
これって、台湾で出されているみたいだけど、またマレーシアのシールも貼ってあるけど、正規版?海賊版?と思いながら、図書館に入っているんだから、まあ、いいでしょう、と。
この放送やってた頃、夜遅くまで若者たちと時間を共有していたから、
(あ、自分もまだ20代だった・・・)
見なかったと思うなあ。
見たとしてもストーリーは覚えていない。
まあ、こういうのを「おお懐かしい」と思って見ようと思うのも、自分が年を取った証拠かと思いますが、
で、一気に見ておりますが、
見ながら、単純ですから、影響されやすいですから、いろいろ考えてしまいます。
特に、薫さんの方が亡くなった婚約者に似ている人に心動かされていくところ、で、身を引いてしまう達郎さんのこと。
物わかりが良いのか、意気地がないのか、思いやりなのか、いい人なのか・・・。
でも、一番思わされるのは「傷つきたくない」気持ち。
傷つきたくないから、優しい振りをして、物わかりがいい振りをして、自分の中で気持ちを整理して、何もなかったかのように生きていく、それって違うよなあ、と思いながら、見ておりました。(中年オヤジが気持ちを込め過ぎか?)
でも、これがクリスチャンの信仰と結びつけられると、
「ゆだねました」という一言で美化されてしまうことはないだろうか、
そんなことを思ったのです。
ほんとは自分が傷つきたくないだけなのに、逃げているだけなのに、「ゆだねました」と言えば、それがいかにも信仰的な言葉に聞こえてしまう。また自分をも納得させられる。
もしかしたら、自分もそんなことをして来なかったかと思います。
ホントはぶつからなければいけなかったところで、
「ゆだねました」「神様は最善にしてくださるから」と逃げて、
自分を納得させて、傷つかないように、自分を守っていたことがあったのではないかと。
「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」第2テモテ1:7
もう一度、この言葉が心にひびいてきました。
神様から来る勇気をもって、人への愛をもって、問題に対することができますように。
さて、ずいぶん遅れてしまいましたが、先週水曜日、24日の「日々のみことば」。
24日は列王紀上に進んで、3章を読みました。
「それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」9節。
これを読んだ時に、
ソロモンは何を見ていたんだろうかと思いました。
彼は民を見ていたんだと。
自分がすばらしい王になることとか、
多くの富を得るとか、
周りの国より強くなるとか、
そういうことよりも、民を見ていたんだと。
だから、知恵を求めた。
民を治めるために知恵を求めたのです。
自分は何を見ているんだろうかと問われました。
同じように、人を見て、人を大切にする者となれますように、
そのように願いました。
そのために必要な愛と知恵を与えてください、と祈りました。
主よ、
私の場合は、知恵ばかりではなく、愛も必要です。
愛を与えてください。
人を大切にする、愛を与えてください。
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