2010-04-21

存在を喜ぶ。

今朝も、寒かったです。
なんだか、ほんとに。


今夜はそれほどでもないようですが・・・。


明日は曇りですが、暖かく、雷雨もあるかも。


先日から、「理解されることよりも理解することを」ということを
思わされていますが、今日はまさに「ああ、このためだったのか」と思わされることがありました。
お話をしながら、「理解してもらおうと思うよりも、相手を変えようと思うことよりも、理解しよう」と思いながらお話を伺っていました。「互いに理解する」とか、「心が通じる」という所までは程遠いのですが、ああ、こういう事なんだろうなあ、お話をさせていただいて、一歩前に進んだような気がします。


愛されることを求めるよりも、愛することを学ばせていただきたいです。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ32章の最後、36-44節です。


「彼らをわたしの喜びとし」41節。

新共同訳ではちょっとニュアンスが違うのですが、
「主が私達を喜んでくださる」んですよね。

これはすごいなあと思います。

昔、ローマ人への手紙の5章11節にある「主を喜ぶ」ということばが、「どういう意味?」って感じでわかりませんでした。

「主がこういう事をしてくださったことを喜ぶ」とか、「主がこういう方だからそれを喜ぶ」とか、そうならわかるのですが、「主を喜ぶ」ってわからなかったです。

でも、最近「主の存在自体を喜ぶんだなあ」と分かり始めています。
それはまず、主が私のことを、わたしの存在自体を喜んでくださっている、とわかったから。

主がわたしを喜んでくださっている。
存在自体を。
だから、わたしも主を喜ぶ。

主よ、
今日も守って下さり、
私の心を支えて下さって感謝します。
一瞬一瞬、語ってくださっていますから感謝します。
どうか、あなたに喜ばれている平安の中で、
私達もあなたを喜ぶ者とならせて下さい。

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