今朝は寒かったですが、昼間はいい天気で暖かくなりました。
明日はもっと暖かくなりそうです。
花粉の季節はもうすぐ峠を越えます。
大学時代の友人、25年くらい前に夜を徹して語り合った友人が、
今、大学生のクリスチャンの団体のための働きをしています。
最近、すれ違いで、なかなか日本に行っても会えないでいるのですが、
彼が自身のブログにこんなことを書いておられました。
「同意書から考えたこと」
考えさせられました。
私たちはいったい、神様に何を期待し、
どのように主を信頼しているだろうか。
自分の願いを実現するために主を信頼し、福音に同意しているのか?
自分は伝道者として、こんな言い方は本当にみじめで、プライドが許さないと言うか、使うこと自体に嫌悪感をおぼえるのだけれど、本当のところ、「牧師としての成功」みたいなことを期待してきたのではないだろうかと、主の与えられることは何でも受け取ろうとしてきただろうかと、問われたような気がします。
「自分に死ぬ」という言葉がありますが、
今、それが問われていると思いました。
さて、「日々のみことば」から。
昨日から、エレミヤ書32章を読んでいます。
実は昨日から始まって、明後日まで、ずっとエレミヤ32章です。
全部つながっている話なので、
昨日も、今日も、どうしてもその日の部分だけでやめられなくて、
32章全体を読んでしまいます。
その中で、昨日、今日と思わされていること。
「私は、それが主のことばであると知った」8節。
ユダ王国はバビロンに滅ぼされると、エレミヤは知っていた。
でも、そこで畑を買え、と言われた。
そんな無駄になるようなことを、そんな常識はずれなことを、
どうして主はお求めになるんだろうか、
そのようにエレミヤも思ったのではないだろうか?
でも、彼は、「それが主のことばであると知った。」
苦難に継ぐ苦難を経験してきたエレミヤが経済的に豊かな生活をしていたとは思えない。
でも、彼は身銭を切って、主に従って、その畑を買った。
今日の「日々のみことば」では、
「あなたは、主にささげた後、現実を見ながら、後悔することはありませんか」と書かれていました。
それで思いめぐらしていました。
右の手のしたことを左の手に知らせるな、というイエス様の命令に逆らってしまいますが、献金はいつも痛みがあったほうがいいと思っています。でも、2回ほど、痛みどころじゃない、「どうするの?」というささげものを主のもとに持っていったことがあります。でも、それがどのように用いられたかということがそれほど気になったことはありません。これは見栄もなく、肩に力も入れず、言いますが、それは本当に「主の導きに従った」という平安があるんでしょうね。主にささげたものは主にささげたもの、どのように用いられても、わたしが何かを言う必要はない、と思っています。そこは本当にそうなんです。そして、生活も日々守られています。
後悔しないでいられる平安を与えられていること、主に感謝します。
主よ、
あなたのみことばに従うことのできる平安を感謝します。
どうか、どこまでも、あなたに信頼して、あなたのなさることに、
身を委ねていくことができますように。
信頼することをもっともっと教えてください。
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