2010-03-14

嵐が去って、ハジも去る。

いやあ、すごい嵐でした。
たぶん、15年あまりのNJでの生活の中で一番怖かったと思います。
大雪とか、大雨とかありましたが、
今回は雨と風。特に風が怖かったです。
昨日の夜は夕方一度家に帰ったのですが、
教会にやり残したことがいくつかあったので、
教会に戻っていました。
そしたら、6時頃に家から携帯電話で、
「停電だから、全部仕事を終わらせてから帰った方がいい」と言われて、
電気の生きていた教会で10時頃まで仕事をして、
帰る途中、ものはいろいろ飛んでくるし、
木は電線に引っかかってぶらぶらしているし、
道路はあちらこちら冠水しているし、で、
嵐の中外に出るのが好きなお天気オヤジも、
さすがに、昨日はびくびくしながら、帰ってきました。


そして、今日も6時頃まで停電だったようです。
まだ、このBergen Countyで80000世帯が停電しているといいますから、
ウチはまだいい方だったのかもしれません。


でも、電気がついてほっとしました。
いかにいつも電気に頼って生きているか、思わされますねえ。
それから、ネット。
iPhoneでどうにか、メールのチェック等できるし、
通話もできるのですが、
これがなかったら・・・と不安になるのも、
いかにネットに依存した生活をしているのか、
考えさせられてしまいました。


1週間あまりのハジの春休みの里帰りも、
あっという間に終わって、
あんまりかまってやることもなく、
また、両親の結婚50周年のためのビデオレターを撮ろうとしていたのに、
停電で、その計画も流れてしまって、
今日の午後アトランタに帰っていきました。


っていうか、今、10時前ですが、Virginia上空です。
9時半頃にAtlantaの空港に着く予定が、
11時を過ぎることになりそうです。


でも、昨日の夜は停電のおかげで、
ハジとサキでいろいろ盛り上がっていたみたいです。
停電でもないと、それぞれテレビを見たり、PCに向かったり、
(今、明日学校が臨時休校になったので、娘たちはまさにそんな感じなんですが・・・)
それぞれに時間を過ごすことが多いのですが、
停電で、TVもPCも使えず、
なんだか、団らんしていたみたいです。


さて、一昨日金曜日の聖書。
マタイ23:13−22。


「見えのために長い祈りをする」14節。

木曜日のところにも「見せるため」という言葉がありましたが、
祈りさえも「見え」のためになる可能性があると言います。

そうなってくるのは、やはり、「祈り」も「信心深さ」の一つの現れと思われることがあるからでしょうか?最近、私は祈りは「神様、私はちょっと疲れたかなあ、休んでもいいですか?」とか、「神様、あの人に電話したいですけど、何時頃がいいと思います?」みたいな、「主に相談する」「ちょっとこぼす」と感じることが多いので、「信心深い」みたいなお祈りはできないんですよね。人に聞かせるようなもんじゃない。

でも、時と場合によっては、教会を代表して祈ったり、人々のために祈ったりするときに、「見え」が入ってくる、そんな誘惑もあるかもしれませんね。

弱い人間です。

そんな見栄を張ってもしょうがない、とわかっているのに、見栄が入り込むことがあるんですよね。気をつけていたい、そんなことは全然意識しないですむような歩みをしたいなあと思わされます。

主よ、
祈りにさえ、見栄が入り込むことがある。
そうなんですよね。
本当に弱いなあと思います。
弱いというか、おろか、というか・・・。
主よ、守ってください。
あなたと、こうやって、ゆっくり語り合う、幸いをもっともっと経験して、見栄なんかとは無縁な生き方がしたいです。できますかね。神様。

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