まだまだ、電気が戻らない方もおられるようですし、
ウチも今日プチ停電(1時間ほど)があったのですが、
今日は久しぶりにすかっと晴れて、暖かくなりました。
やっぱり晴れるって、元気になるんですね。
そして、晴れて元気になるのは人間だけじゃありません。
はい、この日を待っていたかのように、今年初めてクロッカスの花が咲きました。
でも、今年はなんだか、今までに比べて花芽が少ないような気がします。
肥料も何も与えていないので、何も文句は言えないのですが、
満開で、どれくらい咲くのか、これからどんどんつぼみが出てきてほしいものです。
Purpose Driven Lifeの18日目。
18日目と19日目はSmall Groupについてです。
うわべだけの交わりではなく、心を開いた交わりの場。
ここ数年、そのことを思わされていますが、
いよいよ神様が私たちをそこに導こうと
情熱を持って、働いてくださっていることを、
このところ思わされています。
19日目のところにもっと詳しく出てきますが、
そこには勇気が必要だったり、
時間を捧げることが必要だったりします。
主がそれを求めておられるならば、
Rick Warrenが言うように、
単なる方法論ではなく、教会として本質的なことならば、
それが私たちが生かされている「目的」だとまで言うならば、
勇気と知恵と慎重さと愛を与えていただきたいです。
とにかく主に従って行けますように。
3月14日日曜日の聖書。
日曜日はマタイ23:29−39。
「『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。」30節。
これは、イエスが偽善者たちの愚かさを非難することばです。
自分たちだったら、そんな過ちを犯すわけがない、と言っている愚かさを指摘しているのです。
確かにそういう人たちいたなあ、と思います。
「自分が十字架の場面にいたら、自分は絶対にイエス様を守っていた」なんてことを言っていた人たちがいました。この偽善者たちと同じだったなあと。
そんなことを思い出しながら、気がつきました。
「自分は30節みたいな馬鹿なことは言わない」と思っているならば、
それはイエスに非難されていた人たちとどこが違うのか?と。
イエスを十字架にかけた人々を非難して、
自分はあんなことをしない、と言っている人々のことを、
「なんておろかなんだ」と言いながら、
「自分はそんなことをは言わない」なんて思っているならば、
やっぱり、同じ穴のムジナなんじゃないかと。
何て愚かなんでしょう。
救いようがないですね。
そんな者たちをも憐れんで救ってくださる主に目を向けて、
人のことをとやかく言うのではなくて、
主の憐れみによってやっと生かされている、受け入れられている、
そのことに目をとめて、感謝して歩んでいきたいです。
主よ、
自分は何て愚かなんだろうと思います。
気がつかせてくださってありがとうございます。
どうか、あなたの憐れみに、あなたの恵みに、目をとめて、
感謝しつつ歩む者としてください。
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