2010-03-15

大切なこと。

今日はまだまだ雨が時々降る、すっきりしない日でした。
そして、子供たちは休み、まだまだ電気がつかないところもあるみたいです。
水が出なかったり、ガスも出なかったり、ライフラインが全滅の地域もあるようです。




これはのんちの仕事場のあるショッピングセンターの駐車場。
一部、水没しています。
そして、よく見ると、左側の方に取り残された車があります。
手前のゴミのたまり方をみると、一番多かったときは今よりも数十センチ水位が高かったんだと思います。
話によると、土曜日、写真に写っていない左の方にあるテニスコートに来た人たちが、被害に遭ってしまったみたいです。
本当にすごい嵐だったんですね。
だんだん見えてきた被害の大きさです。


今日になって倒れたんじゃないか、という木が近所に何本もありました。
明日、サキは学校がありますが、ユキの高校はまだ停電中だそうで、
まだ明日あるか休みか決まっていないようです。


明日は天気は回復して、久しぶりに太陽が顔を出しそうです。


さて、久しぶりにPurpose Driven Lifeの話題ですが、
17日目。教会という家族が必要、という話です。


最初のポイントが大切だと思います。
「教会という家族は、あなたが自己中心的な孤立主義に陥るのを防ぐ」


教会は人の集まりですから、一人でいたら出会わないような、つらいことに出会うこともあります。もちろん、愛を感じたり、励まされたり、元気をもらったりするのですが、やはりそれだけではなくて、それと反対のこともあります。
教会に属していなかったら、経験しないですむような痛みを経験することがあります。
逃げ出したくなることもあります。投げ出したくなることもあります。


でも、それがまた私たちを整え、主を主とする信仰へと導いてくれるものなのです。


だから、そこで逃げてはいけない。
自分自身と向き合わないといけない。
人々の向き合わないといけない。


神様が与えてくださった家族だから。


さて、3月13日(土)の聖書。
土曜日はマタイ23:23−28。


「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」23節。

子供の時から教会にいた自分にとっては、
十分の一を主に捧げるのはは当たり前以前の当たり前。
パリサイ人の気持ちわかっちゃいます。

スパイスみたいな細かいものでも、
きっちり十分の一を主に捧げないと気持ちが悪い。

だから、イエス様のこの言葉が本当に他人事には思えません。
だって、「正義とあわれみと誠実」をおろそかにしていないかというと、
そんなことはありません、なんて決して言えない。

最初の「正義」という言葉一つとっても、
口語訳では「公平」と訳されている。
(このとき、なぜか、2−3日、「日々のみことば」が見つからなくて、口語訳で読んでいました)
公平は単にみんなと同じように接することとは思えない。
そんなことは公平ではない。
イエスも十二弟子を選ばれた。
ほかにもたくさん弟子がいたのに、
その中の一部の弟子だけを特別扱いした。

それは一人一人への使命、賜物を見極めた上での決断。
自分はそこまでちゃんと考えて「正義」「公平」を行っているだろうか?
言い訳のように、「単純にみんな同じように」ということに逃げていることはないだろうか?

あわれみはどうだろうか、
誠実はどうだろうか。

本当に大切なことを大切にしていくこと。
今、それが自分の人生の中で問われていると思います。

主よ、
本当に大切なことを大切にさせてください。
本当に大切なことを見極め、
それが、たとえ人々に不評であっても、
大切なことを大切にしていくことができますように。

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