今日の朝の集会にこられたひとりの方が、
「のだめ」にはまっている(これはすごくよく分かる)、といって、こんな話をされていました。
のだめと合わせることを課題に出された千秋は、
のだめのためだと、一生懸命練習に付き合う。
でも、結局最後はのだめによって、自分の中にある大切なものが引き出されてくるんだよねと。
それが面白いのだと。
そして・・・
これは、クリスチャンが神様から課されることなのではないかと。
「誰かのために」と思いながら、始めるひとつひとつのことが、
結局はその誰かのためではなくて、「自分のため」だったのだと。
一つ一つの出会いによって変わっていくのは、私たちに触れた誰かではなくて、
私たち自身なのではないかと。
本当にそうですよね。
神様が与えてくださる出会いの一つ一つにあって、
私たちは、その方々に、神様のことを伝えたいと思う。
私たちは「祝福の基」として、「神様のメッセンジャー」として、
そこにおかれていると思う。
でも、そのことを通して、変えられていくのは、
本当は私たちなんじゃないか。
それが神様の素晴らしい奇跡なんじゃないかと思うのです。
それにしても、のだめはおもしろい。というか、ためになる。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ6:1−15。
「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」8節。
そうなんだ。
神様は、私にとって何が必要なのか、
全部ご存知。
だから、試練も与えられるし、
困難も与えられる。
それがなかったら、自分はダメだから、
自分は傲慢になってしまうから、
神様は必要な訓練を与えれる。
だから、祈るというのは、
神様よりも、私たちが私たち自身の必要を知るために必要なんだろうなあ。
だから、しつこく何度も何度も自分の願いを繰り返すことよりも、
「御国がきますように」「御心が天で行われるように、地でも行われますように」なんだろうな。
神様とつながっていく祈りのひととき。
これからも大切にさせていただこう。
主よ、
あなたが待っていてくださること、
あなたが聞いてくださること、
共に歩んでくださることに感謝します。
どうか、あなたの胸の内を私に分かち合ってください。
そして、私があなたの導きに従っていくことができますように。
あなたのみ声を聞き逃すことがありませんように。
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