2008-11-05

「あなたはわたしの子だ!」

昨日はまた帰りが遅くなったので、
更新が遅れました。


で、昨日は、お客さんのご希望で、Brooklyn Tabernacleの祈り会。
折しも、大統領選挙の日。
開票作業が始まる中での祈り会、
家にいたら、テレビの前にいるだろうなあ、と思いながら、
主の前に出る一時となりました。


最初から、「だれが大統領に選ばれようとも、私たちの主はイエスです。」と
当然のことなのですが、浮ついた心が引き戻される思いになる言葉で、
祈り会が導かれていきます。


投票権がない私にとっては、
どっちがいいのかなあ、とはっきりしない態度でも赦されるこの日。
もしも投票権があったら、もっと真剣に考え、聞き、祈っていたかなあと思い、
自分の無責任さに恥じる思いもあります。


最近の民主党の同性愛結婚や妊娠中絶に対する容認の姿勢は行き過ぎていると思うし、
かといって、共和党の外交や経済の政策に賛成できるかというと、
ちょとなあ、と思うし、もっともっと知らなければ決断できないことが多いと思います。

「だれが大統領になっても、私の主はイエスです」というのは、
確かで間違いはないのですが、
それと共にもっともっと関心をもって知るべきものがあると思わされました。


そして、昨日はCymbala牧師が不在で、ゲストスピーカーが来られました。
Long Island でTeen ChallengeというプログラムをしているJimmy Jack師 。
薬物中毒やアルコール中毒の子供たちの救出のプログラムです。


彼がどのように救われたのか、メッセージの中でも語ってくださいましたが、
ここにもっと詳しく書かれています。 (英語ですが・・・)


彼自身の経験もすごいインパクトがあったのですが、
私自身が語られたのは、彼が開いた聖書の言葉です。


「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」
ルカによる福音書の15章の「放蕩息子のたとえ」で、
弟息子が父親に遺産を分けてもらうところです。


これはお父さんに「あなたの存在はいらないけれども、あなたがくれる財産は欲しい」と言っているようなものだと。


夫が妻に「あなたはいらないけれども、あなたの稼ぎは欲しい」と言われたらどうでしょうか?
妻が夫に「あなたの存在はいらないけれども、家事はやって欲しい」とか、
「あなたはいらないけれども、あなたのカラダは欲しい」と言われたら、どうでしょうか?


でも、私たちはそれと同じことを神さまにしていないだろうかと、問われたのです。


経済的安定、健康、家庭、仕事、・・・
そのようなものを求めていながら、神さまご自身を求めていなかったら・・・。


だから、弟息子がすべてを失って、
お父さんのところに帰ろう、使用人でもいいから・・・、と帰っていく時に、
まさに「ほんとうの自分に戻った」のです。


そして、「自分には息子と呼ばれる資格はない」と思っていた息子に、
父は、「いや、おまえは私の息子だ!」と言ってくれる。


Jimmy師自身がそうですし、また彼が出会う多くの子供たちが、
「おまえはわたしの子どもだ!」と愛をもって受け入れられた経験がありません。
もっと恵まれているように見える日本の子供たちの中にも、同じことが言えます。
もしかしたら、NY・NJにおられる日本の方々の中には、
そのような痛みがあるからこそ、ここにおられる方々、
そのような痛みがなかったら、ここには来なかったのではないか、という方々が、
たくさんおられるのかもしれません。


そんな私たちに対して、
「おまえはわたしの子どもだ!」と語ってくださる神。
その声を聞くことの大切さ、
また語り続けること、伝え続けることの大切さを思わされます。


神は、ご自身の元に帰ってきた者たちを迎えます。
「おまえはわたしの子どもだ!」と。


さて、昨日の聖書。
昨日はピリピ2章5-11節。


「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・」7節。

教会の一致のことを思わされている時に、
この言葉が心に響いてきました。
主がそうしてくださったように、
仕えること。仕える者として歩むこと。

そして、このイエスを主とすること。
この方の前にひざまずくこと。

月曜日に思わされたことにあわせて、
主が歩まれたように、わたし自身も歩むこと、
その歩みに教会の一人一人を招くこと、
その大切さを思わされます。

主よ、
あなたが仕えてくださったように。
わたしも仕えることができますように。
仕える者とならせてください。

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