2008-10-02

礼拝をすること。

今日はぐんと涼しくなりましたね。
昼間も15度くらい。夜になって、冷えてきました。
今、夜の11時過ぎですが、10.8度まで下がってきました。
朝は8度くらいだと思います。


この冷え込みのピークは土曜日の夜あたり。
でも、今回は5度くらいと、この時期としては、
こんなもんかな、という感じです。


来週にはまた暖かい日が多くなりそうです。


去年の初パッチは26日。
今年はもうすでに足下が冷えてしょうがないですが、
もうちょっとがんばろうと思います。


さて、今日は弟子訓練のテキストで、
「礼拝」を学びました。


神さまのきょさの前にひれ伏す礼拝、
そのような礼拝を私たちはもっているだろうかと思わされました。
礼拝の目的が「神がほめたたえられること」になっているだろうかと。

他のところでも時々いわれるのですが、
今日は「礼拝が自分中心になっていないか」
振り返る時を持ちました。


「今日は恵まれた、先週はよくわからなかったけど」
「今日は好きな歌を歌えて良かった」
ということで、「良い礼拝」と言われたりします。


そのほとんどの場合は「説教がわかりやすかった」「説教が良かった」と言い換えることができるんでしょうね。でも、それって「神の前にひれ伏す」礼拝とは違うところに焦点が当っていると思います。


自分がどう感じるかが礼拝の善し悪しを(その善し悪しってのがあるのがおかしいかも)決めるというのはやはり違うと思います。


どこまでも、主がほめたたえられる礼拝。
神さまの前にひれ伏す礼拝が守られていくこと、
そこに私たちが喜びを見出していくこと、
それが大切なんだと思います。


たくさん集まる方々の中には、
「説教を聞きに来る」方もおられるでしょう。
みんなと一緒に賛美することを楽しみにしてこられる方もおられるでしょう。
それはそれでいいと思います。
特に初めての方々が、
「わたしは神を礼拝に来ました」ということはあまりないと思います。

でも、礼拝の意味を知った人たちの中に、
本当に「礼拝」を守ることを楽しみに来られるかたがたくさんいなくて、
どうして、礼拝に始めてきた方に、
「ああ、ここにはかみさまがおられる」と伝わるでしょうか?


今度の日曜日の礼拝、そのような思いで集う方々が多く与えられますように。


初めての方々、
久しぶりの方々にも、
「ああ、ここには何かある」と
伝わるものがありますように。


さて、今日の聖書。
今日はサムエル第二17:1-14


「アルキ人フシャイを呼び出し、彼の言うことも聞いてみよう。」5節。

みんなが「それで行こう」と思っていたのに、
いつもアヒトペルの言葉を信じて大丈夫だったのに、
ここでフシャイの言葉を聞いてみようと思ったというのが、
不思議に思いました。

でも、そのような不思議なことの中に神さまが働いておられたんだなあ、
と思わされます。

普段思いつかないようなことを思いついたり、
気がついたりすることは、
やっぱり神さまの導きなんだろうと思います。

不思議な方ですよね。

そして、アブサロムがそれに反応する。

信じている者たちには、「自分で考えなさいよ」とか、
「もっと敏感になりなさいよ」という方法で語られることが多いような気がします。
頑固な人、信仰の経験の少ない人には、もっと直接的に、
よくわかる方法で示されることが多いんだろうと思います。

だから、はっきりと見えないときには、
「昔はもっと神さまが近く感じられたのに、今はそうでもない、自分の信仰はバックスライドしちゃったんじゃないか」と思うのですが、本当は反対なんでしょうね。「幻を見た!」なんて聞くと、ああ、あの人の信仰はすごいな、自分は信仰がないから、見ないんだ」なんて思ってしまうんですが、それも違うんでしょうね。神さまは信頼しているから、私たちの信仰を信頼しておられるから、幻を使ったり、お告げを使ったりなさらない。聖書と良心と信仰の友の助けと、それらによって道を知りなさい、と言っておられるんだろうと思います。反対に、頑固になって自分の考えを変えようとしない人に対して、幻に表れたりなさるんでしょうね。その代表は信仰を持つ前のサウロ、のちのパウロであり、異邦人に伝道しないぞ、と偏狭になっていた時のペテロですよね。

主よ、
あなたの導きを教えてください。
それを知ることができますように。
わたしにふさわしい方法で、あなたの道を教えてください。
そして、それに従っていくことができますように。
それに従って歩んで行かせてください。



No comments:

Post a Comment