さて、昨夜の続き。
昨日の聖書箇所は、コリント人への第一の手紙15章12-19節。
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」19節。
単なる希望をキリストに置いているだけだったら、
それは哀れだ、なんてどういうことなんだろうかと思いました。
キリストに希望を置いていいじゃないかと思いました。
どうしてあわれなの?と。
でも、味わっているうちに、
これは自分の「希望」という言葉の意味が、
「キリストにある希望」という意味で使う場合に、
もはや、他の時に「希望」とは異質なものになってしまっている、
キリストにある希望、はもはや、「まれなのぞみ」ではなくて、
「平安と確信を与える土台」になっているんだとわかったのです。
そうですね、「単なる希望」じゃない。
「希望を捨てないでがんばる」というのではなくて、
「イエス様がいるから、大丈夫じゃん」という、
平安になっているんですね。
それをいただいている。
その確信をいただいている。
その根拠が、イエスが死をも打ち破って、今も生きておられる、
人間の最後の敵である死をも打ち破ってくださったんだから、
大丈夫なんだと。
与えられているモノの大きさを再認識しました。
主よ、
与えられているモノがものすごい、すばらしいものなのに、
なかなか気がつかないでいる者です。
ありがとうございます。
あなたにあって抱いている希望が、
ものすごい平安と確信、心の安定を与えてくれています。
感謝します。
その平安が周りの人々をも生かすものとなりますように。
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