2008-09-05

新しく生まれる。

ファミリーキャンプでは
洗礼式がありました。
初めての「全身でつかる洗礼」を授けました。


私自身は全身だったのですが、
今の教会の牧師として奉仕をさせて頂く中で、
会堂の制約で水を垂らす滴礼だったのです。
今回は本人の切なる希望で、全身の洗礼(浸礼)を、
ちょうど川が流れている今回の会場で、
受けられることになりました。


洗礼はキリスト抜きの古い自分に死んで、
キリストと共に新しい者としてよみがえることをあらわしています。

私は気がつきませんでしたが、
川下りをしていた周りの人たちも一緒に讃美歌を歌って喜びをあらわしてくださったそうです。


「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」第2コリント5章17節。


さて、9月1日、月曜日の聖書。
月曜日は第2サムエル1章1-16節。



「おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、『私は主に油そそがれた方を殺した』と言って証言したからである。」16節。

神が選ばれた者に対する、何処までもそれを尊重する思い、言葉、態度。
ダビデの中にその徹底した姿を見ることができます。
それはやはり自分もそうだったから。

神に選ばれた人を否定することは、
自分が神に選ばれていることの意味をも否定することになってしまう。

彼は何処までも、そこにこだわったのです。
そこに徹底して立ったのでした。

サウルの行いを見たら、
彼はこんなことは言えなかったでしょう。
でも、彼は神の選びを見ていた。
神の主権を見ていた。
サウルが自分に対してひどいことをするからと言って、
神に従わない愚かな者だからと言って、
サウルに対する神の選びを否定することはなかった。

自分にとっても大切なことだと思いました。
私自身も自分の行いとか、
自分の努力の姿勢とか、まじめさとか、
罪のないところによって、立たされているわけではありません。
そこでテストされたら、神さまの標準にあわないと思います。
ただ、主の恵みであり、主の選びです。

人に対しても、そのような目を向けることができますように。
主よ、
あなたが私を選んで立ててくださったことに感謝します。
他の働き人をも同じように選んで立ててくださったことを信じます。
あわれみに感謝します。
人の働きを心から尊重できる者とならせてkづあさい。

2 comments:

  1. かきごおり先生、

    >洗礼式の写真とてもステキですね。

    サムエル第二1章1節~16節。

    目に留まったのはアマレク人。思いついたことを上げていきます。

    ①1節にてダビデは既にアマレク人を打っていたと書かれてあり、15節ではダビデにやって来たそのアマレク人は打たれています。この聖書箇所はアマレク人に焦点を当ててみるとおもしろいかもと思いました。

    ②そのアマレク人の証言には偽りがあるようです。サムエル第一31章4節からサウルは自害したと読めます。

    ③では、そのアマレク人の魂胆は何だったのでしょうか?10節から判断するとダビデに取り入ろうとしたのかもしれません。

    ④しかしながら、それは愚かな考えのようでした。14節ですね。

    ⑤ダビデを追っていたサウルを殺したのに(16節の理由は分からないでもないのですが)何故、ダビデに殺されるのか?と疑問でした。

    ⑥嘘をついていたこと、ダビデに媚を売ったことも理由だと考えられますが。

    ⑦アマレク人が神の選びを否定して打たれることは神さまのご計画だったのでしょうね。サムエル第一30章8節。

    ⑧ローマ書12章19節を思い出しました。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる
    。」

    J兄

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  2. J兄、

    なるほど、このアマレク人は、ダビデに取り入ろうとしていたのかもしれませんね。自分はあなたの敵のとどめを刺したと。それに対して、ダビデは、とんでもないことだと、そんなことでどうして私に取り入ることができると思っているんだと。

    ダビデの正しいことを正しいとするところ、間違っていることを間違っていると言うこと、そして、それに対して決然とした態度を取るところ、本当に気持ちがいいです。

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