2008-07-09

苦言を呈する気持ち、苦言を受ける気持ち。

今日はたぶん、夜遅くなると思うので、
今のうちにNYPLで更新。

昨日に比べるとずっと涼しくなりました。
でも、まだ乾いた空気は入ってきていません。
今夜これから雷雨があって、
そして、明日からはドライになると思います。


今、午後の4時頃ですが、
レーダーを見ると、NJの真ん中くらいまで雷雲が近づいてきています。
1時間後にはNYもにわか雨がありそうです。

NYに来たとき、

日系のお弁当でもいいんですが、
図書館のそばの日系のお店は混んでいるので、
どうしてもアメリカ系のファーストフードになってしまいます。


でも、最近その手の話がうちで話題になるんですが、
やっぱりカロリーとか、
脂肪分とか考えると日系の方がいいかな、と思って、
今日はランチが2時半になったので、
ランチの時間を過ぎて、ずいぶんすいていた日系のところに行きました。


お弁当買って、コーヒー買って、
食べてたんですが、
コーヒーがひどい。
濃いのか煮詰まったのか、
とにかく飲めない。


かなりStrongなコーヒーが好きな私でも
どうしても飲めない。



で、ちょっと手の空いていた店員さんに、
「あのコーヒー、なんだかものすごい濃いんですが・・・」と
これからくるお客さんのために、
またお店の評判のために、

半分親切心でお伝えしたんですが、
機械の方をチェックもせずに、
「ドリップしている途中のを入れたんじゃないですか?お湯で薄められますよ。」だって。


そこで反論する気も失せてしまって、
お湯で半分くらいに薄めて、クリームと砂糖をどぼどぼ入れて、
それでも濃かったです。


考えてしまいました。
自分は苦言を呈されたときに、どんな風に聞いているだろうか、
そして、苦言を呈する方はどんな気持ちでそれを話すか、
そのことを考えて聞いているだろうかと。

苦言を呈する方は、もう、どうでもいいかな、と思いながら、
やっぱりちょっと言っておこう、ということもたくさんあると思うんですよね。
自分が収まりつかない、って時もあるかもしれないけど、
それだけだったら、どっかで愚痴ればいいのかもしれない。
だから、苦言を呈するのは、「聞いてもらえる」「言って価値がある」と思うときですよね。
つまり「希望を持っている」時。


でも、自分が聞く側に立つと、そんな気持ちがなかなか伝わらなくて、
素直に聞けなかったりする。
こっちはプライドの問題でしょうね。
それはまた不安の裏返しみたいなもんで、
自信がないときほど人の話が聞けなかったりする。


「あの人には何を言ってもしょうがない」と言われないように、
聞く耳を持ちながら、でも、ロバを売りに行った親子のように、
周りの声に振り回されないように、大切な軸はしっかり持ちながら、
歩みたいと思いました。


さて、今日の聖書。
今日はコリント人への第1の手紙6:1-11


「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」7節。

自分が損をすることでも、だまされていることができるでしょうか。
そしてだまされていていいんでしょうか。


考えさせられました。

これは教会の中でのことですよね。


よけい、ん~と考えてしまいました。

実際に自分が損をした時に、
この言葉の意味がわかるだろうと思います。


今までの私だったら、平気で「損をしよう」と言っていたと思います。


どうなんでしょうね。
これは宿題。ここで無理に何かを言おうとしないで、
自分が実際にこのような出来事に出会ったときに、
このみことばに従って与えられる恵みがあったら、
どこかで分かち合えるかもしれません。


でも、主が語ってくださったことは、
語ってくださったこととして、心にとめておきます。


主よ、
私はこのようなことに巻き込まれたくありません。
でも、巻き込まれたら、どのように反応するでしょうか?
私が将来、このようなことに巻き込まれたときに、
このみことばを覚えていることができますように。
そして、ただ、覚えているだけではなくて、
言い訳をしないで、抜け道を造らないで、従うことができますように。

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