2008-04-23

私たちを癒す方。

今日は元気です。
昨日は「列王紀」を一気に読んで、まとめる、
という作業でどうやら燃え尽きてしまったようです。(笑)
今週の「信徒勉強会」の準備・・・。

「列王紀」はその文字通りユダヤの王様たちの歴史です。
紀元前900年代から500年代までの400年あまりの歴史の中で、
王たちがどのような政治をしたか、
「神の前にどうだったか」という視点で書かれている書物です。

400年の歴史の中で、
信仰者たちが戦ってきたことを、
レターサイズの紙、表裏にまとめるなんて、到底無理です。

でも、なんとか鳥瞰図を提示出来ればなあと思っています。

「わかりやすく伝えるためには、自分が理解していないとダメ」
「難しいことを言う人は、結局、自分で理解してない」

ということなんだろう、といつも思いながら、
とにかくまず、自分で理解すること、
そして、それをいかにわかりやすく説明出来るか、
チャレンジです。

昨日はアスパラガス5本収穫。
今日は夜明け前にあわてて家を出てきたので、
どうなっているか、わかりません。
明日まとめて収穫でしょう。

今日は暖かい、ちょっと汗ばむ陽気になりそうです。

さて、昨日の聖書。
昨日は出エジプト記の15章22-27節でした。

「わたしは主、あなたをいやす者である。」26節。

主は癒してくださる方。
単純にそれを信じて、祈ろうと思いました。
身の回りにいる、癒しを必要としている
お一人一人のためにお祈りしたいと思いました。

今まで信仰を持ちながら歩んできた中で、
どうして?と思う経験をたくさんしてきました。

祈ったのに、あれだけ信じて求めたのに、
どうして癒してくださらなかったんだろう、
そんな経験がたくさんあります。

「祈りが足りなかったから?」
「信仰が足りなかったから?」
「疑ったから?」
そうかもしれません。
誰が完璧だったと言えるでしょうか?
誰が「少しも疑わなかった」と言えるでしょうか?

今の自分よりも、信仰がなかったかもしれません、
今の自分ほど祈りの時間を取っていなかったかもしれません。

だから、「あんなに祈ったのに」なんて、
ホントは言えないのかもしれません。

でも、昨日思わされたのは、
「私は癒す者である」という方がおられて、
その方に願って、祈って、
でも、天に召されて行かれてたとするならば、
それは私たちの思いを遙かに超えた、
神さまのお考えがあるんだろうと、いうことです。

特別な意味があるんだろうと。

神さまの目からするならば、
癒されるという奇跡よりも、
もっと素晴らしい意味があるんだろうと、
思うのです。

その意味はもしかしたら、
この地上では最後まで「おぼろげに見る」(ローマ13:12)
だけなのかもしれない。
でも、それでもいい。

だから、祈りたい。
そう思いました。

癒しを必要としているお一人一人のために、
祈りました。

主よ、
あなたは宣言されました。
「わたしは癒す者」と。
ですから、あなたに祈ります。
どうか癒してください。
どうか、今、癒しを必要としている、お一人一人に、
あなたが触れてください。

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