2007-12-22

闇と光

ということで、気持ちよく目覚めました。
昨日は一日どんよりした天気で、
気温も1度から2度くらいをうろうろ・・・。

今朝も1度です。

今日はもう少し暖かくなるようですが、
やはりどんよりした一日のようです。

そして明日の日曜日は雨。

今回は雪の心配は全くありません。
でも、雷が鳴るかもしれないようです。

クリスマスが近づくにつれて、
クリスマスの意味をいろいろ考えさせられます。
その中でここ2-3日思わされているのは、
「いつから、クリスマスは『幸せ』な人の祭りになったんだろうか」
ということです。

今朝、読んでいたインタビューの中で、
三浦綾子さんのご主人の光世さんが、こんな話をしておられました。
三浦家では40年以上、子供クリスマス会をして来られたそうです。
(その記事は5年くらい前のでしたので、今はどうされているかわかりませんが)

綾子さんが亡くなった年、1999年のことです。
10月になくなられたのですが、
「今年は子供クリスマス会はしませんよね、あんなことがあったから」
と言ってくださった方がおられるそうです。
もちろん、その方は光世さんを心配して言われたのだと思いますが、
やはり、身内に不幸があると、新年の挨拶と同じで、
クリスマスの祝いもするもんじゃないという感覚が
私たちのうちにあるかもしれません。
でも、イエスは平和な、家族がみんな元気な、
「幸せな」人たちに歓迎されるために、
来られたのではありませんでした。

暗闇に輝く光として来られたのでした。

そんなことを考えていると、教会のあり方も、
問われているように感じます。

痛みや悲しみの中にいる方々に届くクリスマスとなりますように。

ちなみに、光世さんはその年もクリスマス会をされさそうです・・・。

さて、昨日の聖書。
昨日はテトスの手紙2章11-15節でした。

「良いわざに熱心なご自分の民」14節。

イエスがこの世に来られたのは、
私たちを救うためだったけれども、
私たちが救われた後も、好き勝手に生きるためではなくて、
「良いわざに熱心な者」として生きるために、
来られたのだと、
もう一度思わされました。

そして、自分はそうだろうかと・・・。

良いわざに「熱心」だろうかと思わされます。

「縁があれば・・・」「出会いがあれば・・・」
そして、
「時間があれば・・・」と。

「熱心」とはほど遠いように思います。

行いよりも信仰だと、私たちは言います。
「私は良いわざをしている」と、
傲慢になってはいけないと思います。
「いい子」になってはいけないと思います。

でも、それが良いわざに熱心であることを
妨げてはいけないと思いました。
そして言い訳に使ってもいけないと・・・。

主よ、
あなたが私たちの所に来てくださって、
ありがとうございます。
あなたの愛を味わって、
熱い思いを持って、
人々の所に行くことができますように。

出会いを見つけ、
機会を見つけ、
時間を見つけて、

良いわざに熱心な者とならせてください。

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