2006-04-26

「休む」ということについて思い知らされたこと。

昨日のところで(書いたのは今日だけれども・・・)
「仕事をしたい」と思うほどリフレッシュされるのがいい休暇・・・という話を紹介した。

でも、今、日曜日の礼拝の準備をしていて、思った。
やはり今でも自分の中に、
「休暇」に対する後ろめたい思いみたいなのがあって、
「牧師としての働きのために役に立つんだから許して・・・」
みたいな気持ちが働いているのか、と思い知らされた。
「牧師は365日、24時間です」みたいな先輩の言葉がある。
確かに、そうだと思う。いつでも、連絡があったら動く。
いつでも心にかかる人がいたら動く。
でも、それは牧師だけではないだろう。
どんな人でも、「今とても大変なことが起ったんだ、すぐ来てくれ」と言われたら、
昼も夜もない。
心にかかる人がいたら、休みの日でも動く。いや、仕事が休みの日にこそ動く。
だから、それはどんな仕事をしていても、勉強をしている学生でも、主婦でも、親でも、
みんな365日、24時間態勢なんだと思う。

でも、思わされたのは、
やっぱり人間、「自分はこんなにやっています、認めてください」みたいな世界に生きている。
そして、やっていないように見られるのは怖い。
あの牧師暇なんじゃない?と思われるのは怖い。
スケジュールが詰まっていることが、自分の存在価値を支えているような。

でも、それって聖書のメッセージの真逆じゃないのか!
ある本で読んだ。本当にそう思った。
安息の日、それは
「仕事をしている時だけではなくて、
何もしていない自分にも価値があることをエンジョイする時」なんだと。
一週間の初めの日に、その「恵み」から出発するんだと。
今や休暇も「もっといい仕事ができるためにリフレッシュする時」になっている。
それはやっぱり仕事中心主義。

「何かをする」ことによって生きている日常から離れて、
「聞く」こと、「与えられる」ことによって生きていく、
そのような時なんだと思う。

しっかり休ませて頂きました。(^_^)v

神様、
あなたが語ってくださってありがとうございます。
気が付かせてくださってありがとうございます。
あなたに「そのままで、存在自体」受け入れられていること、感謝します。
神様、あなたの「恵み」を語る者としてください。

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