2006-04-26

御言葉が語られて

今日は朝からNYの日です。
いやあ、4月の初めに朝が1時間早くなったはずなんですが、
6時過ぎで、もう明るい明るい。
いいですねえ。
もう1時間早くしたらどうかなあ、と思います。
朝はちょっと涼しかったです。
3度くらい。
でも、寒いとは思いませんでした。
パッチ履いてたけどね。

基本的にNYみたいなコンクリートに囲まれたところ、
いいみたいです。
子供の頃、下町に住んでいたからでしょうか?
全然OK。
花粉が少なくて助かります。

でも、初めてお昼のアポイントがなくて、
自分で「どこで食べよかな」と思って、
1時頃出てみたら、まあ、すごい人。
さすがに、「やーめた。2時か3時頃にしよ。」と思いました。
皆さんどうしているんでしょうか?お弁当?
あ、お弁当を売りに来るという話も聞きましたね。

話は変わって、今朝歩きながら思ったんですが、
野菜とか育てていると、
水をいっぱいやりたいですよね。
さるかに合戦のカニのように、まだ芽が出ないかなあって。
でも、種類によってはやってはいけないのもある。
そして、いずれにしろ、やりすぎないことによって、
水を求めて根が張るようになる。
そして上も立派になると、聞いたことがあります。

自分はどうかな、と。
昨日読んだ「生ける水の源」という言葉と一緒に思いめぐらしていました。
自分は深く深く、御言葉から味わっているだろうかと。
自分で神様の前に御言葉を求めて、頂いているだろうかと。
ともすると、手っ取り早い説明書や、他の方の証し、他の方の説教を頼っていないかと。
自分で御言葉をいただいて、語られて立ち上がる、そのような歩みをしたいと思いました。
渇きを覚える、そのような中で、もっともっと深く取り扱われるような経験が必要だと思います。
手っ取り早いのは、根をダメにしてしまうんだなあ、と思いました。

そして、今日は目が疲れていたので、
バスの中では聖書を読まないで、
図書館に来てから読みました。
エレミヤ書の18-23章を読みました。
そこにもありました。
「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。」
20章9節の言葉です。
ああ、私はこのように御言葉を語られて、
「黙っていられない」という思いで、
毎週講壇に立っているだろうか?
そう問われる思いがしました。
やはり御言葉を味わうこと、本当に深く深く根を張る木のように、
主の恵みの中に生かして頂いて、
時には「水が断たれているんだろうか」と思うほどに渇きを覚える経験をする中で、
主に深く深く触れて頂きたい、深く深く恵みを味わわせて頂きたい、
そのように思いました。

神様、
あなたを求めます。
あなたが語ってください。
あなたの御言葉を与えてください。
心の深みまで、私を取り扱ってください。
そして、恵みの深みまで私を連れて行ってください。
いのちを与えてください。


No comments:

Post a Comment