今日は朝からNYの日です。
いやあ、4月の初めに朝が1時間早くなったはずなんですが、
6時過ぎで、もう明るい明るい。
いいですねえ。
もう1時間早くしたらどうかなあ、と思います。
朝はちょっと涼しかったです。
3度くらい。
でも、寒いとは思いませんでした。
パッチ履いてたけどね。
基本的にNYみたいなコンクリートに囲まれたところ、
いいみたいです。
子供の頃、下町に住んでいたからでしょうか?
全然OK。
花粉が少なくて助かります。
でも、初めてお昼のアポイントがなくて、
自分で「どこで食べよかな」と思って、
1時頃出てみたら、まあ、すごい人。
さすがに、「やーめた。2時か3時頃にしよ。」と思いました。
皆さんどうしているんでしょうか?お弁当?
あ、お弁当を売りに来るという話も聞きましたね。
話は変わって、今朝歩きながら思ったんですが、
野菜とか育てていると、
水をいっぱいやりたいですよね。
さるかに合戦のカニのように、まだ芽が出ないかなあって。
でも、種類によってはやってはいけないのもある。
そして、いずれにしろ、やりすぎないことによって、
水を求めて根が張るようになる。
そして上も立派になると、聞いたことがあります。
自分はどうかな、と。
昨日読んだ「生ける水の源」という言葉と一緒に思いめぐらしていました。
自分は深く深く、御言葉から味わっているだろうかと。
自分で神様の前に御言葉を求めて、頂いているだろうかと。
ともすると、手っ取り早い説明書や、他の方の証し、他の方の説教を頼っていないかと。
自分で御言葉をいただいて、語られて立ち上がる、そのような歩みをしたいと思いました。
渇きを覚える、そのような中で、もっともっと深く取り扱われるような経験が必要だと思います。
手っ取り早いのは、根をダメにしてしまうんだなあ、と思いました。
そして、今日は目が疲れていたので、
バスの中では聖書を読まないで、
図書館に来てから読みました。
エレミヤ書の18-23章を読みました。
そこにもありました。
「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。」
20章9節の言葉です。
ああ、私はこのように御言葉を語られて、
「黙っていられない」という思いで、
毎週講壇に立っているだろうか?
そう問われる思いがしました。
やはり御言葉を味わうこと、本当に深く深く根を張る木のように、
主の恵みの中に生かして頂いて、
時には「水が断たれているんだろうか」と思うほどに渇きを覚える経験をする中で、
主に深く深く触れて頂きたい、深く深く恵みを味わわせて頂きたい、
そのように思いました。
神様、
あなたを求めます。
あなたが語ってください。
あなたの御言葉を与えてください。
心の深みまで、私を取り扱ってください。
そして、恵みの深みまで私を連れて行ってください。
いのちを与えてください。
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