今朝は6時前に起きて、
ちょっと庭に出ました。
キツツキが木をつつく音。
何種類もの野鳥の声。
7度というちょっとひんやりした気温。
ちょうど日の出の頃で、
高原のキャンプ場にでもいるかのようでした。
静かな、朝の一時でした。
これからの季節、ちょっと着込んで、
時には朝の祈りを外でするのもいいかも、と思いました。
今日はGood Friday。
イエスが十字架にかけられた日です。
朝9時に十字架にかけられたといいますから、
ちょうど今頃です。
イエスの十字架に思いを馳せながら、
でも、夜は牧師館で集会ですから、
片づけも視野に入れつつ、
一日を過ごしていきたいと思います。
ところで、昨日はMaundy Thursdayでした。
ついこのあいだ、この言葉について、質問されたのですが、
その時は知りませんでした。
アメリカで迎える14回目のMaundy Thursdayなのでしたが、
始めて辞書を開いて意味を調べました。
そしたら、Maundyとは最後の晩餐の時に
イエスが弟子たちの足を洗った出来事のことを指すんですね。
ですから、直訳すると「洗足の木曜日」。
足を洗い合う日。
最後の晩餐の時にイエスが無言で立ち上がり、
弟子たちの足を一つ一つ洗われました。
一人一人への愛を込めて、
もうその段階で裏切っていたユダの足も。
でも、そこで、「イエスさま、私の足は洗わないで下さい」と
申し訳ない思いで満たされて、言った男がいました。
私の好きなペテロです。
いろんな失敗をしますが、失敗を通して、神の愛、イエスの力を経験していく男です。
そのペテロに、イエスは
「もしもわたしがあなたを洗わなければあなたはわたしと何の関わりもなくなる」
と言うのです。
「足を洗う」
「足を洗ってもらう」
このことの意味の深さを思わされます。
もしも、今晩の集まりで、「じゃあ、ここでお互いの足を洗いましょう」
と私が言い出したらどうでしょうか?
「そんな集まりには行けない」
「きれいにしておけば良かった」
「私は日頃手入れしているから大丈夫」
私たちの心もそうなんですよね。
きれいな部分だけ見せてもいい。
もう少しきれいになったら、もう少し立派になったら教会にも行けるけど・・・。
ここまでは見られたくない・・・。
本当のことを言うと、
「足を洗う」ことよりも、「足を洗ってもらう」ことの方が、ずっと勇気がいって、
ずっと相手に対する信頼がいるかって思います。
だから、私たちはイエスに「足を洗ってもらう」ことが大切なんではないかと。
足を洗い合うことのできるような友がいたらどんなに支えられるかと。
さて、今日の聖書。
今日はイザヤ書13章から28章まで一気に行ってしまいました。
あんまり引っかからなかったから、ここまで行ったと言うこともできるでしょう。
そして、最後に心に留ったのは、28章の16節。
「信じる者はあわてることはない」
最近、自分の怠慢で押せ押せになっていることがあって、
そして、あてにしていた当てが外れて、
「ああ、神様には他の計画があったんだなあ」と思っていることがあるのですが、
ちょっと焦ってはおります。
でも、今日、この聖書の言葉を読んで、
神様が他の計画をお持ちならば、必ずいいタイミングで道が開かれる、
そのように感じました。
信じる者はあわてることがない。
もちろん、自分の怠慢は反省しますし、
恥じておるのですが、
あわてなくても大丈夫。神様が必ず最善の道を備えて下さるから・・・。
そのように信じています。
神様、
あなたを信頼します。
あなたがすべてを御手の中に収めておられること、
あなたの御許しの中に、
すべてがあること、
どうして・・・と思うようなことさえ、
あなたのみ許しなしにはあり得ないこと、覚えます。
ですから、信頼します。
あなたがすべてを最善に導いて下さいますように。
すべてをお守り下さいますように。
道を開いて下さいますように。
No comments:
Post a Comment