今回は普通のセダンで行ったので、
二人しか乗らなくても、トランクと後部座席は荷物でいっぱい。
前しか見えません・・・。
その奉仕に行く子の思いをちょっと聞きました。
神を信じる者として、最初はどう受け取っていいかと戸惑ったようです。自分たちは今まで、このような不平等があり、貧しさの中に閉じ込められる人々がいる社会を作る側にいたこと。それが無意識であったとしても・・・。また神を信じる者として、一生懸命に、真実に生きて来たとしても。
でも、それを知ったからには、この社会が変わるために、何かをしたいと思っておられるようです。ただ、「人が福音によって変われば、社会も変わる」とまでは単純には思えないと。
だから、まずは1年間の限定ですが、奉仕活動に携わるそうです。
そこで、知ること、学ぶことたくさんあるだろうなあと思います。
(30年近く前、大学で「解放の神学」を学んで、同じようなテーマで考えていた、自分には、「社会を変えねば、この構造を変えねば・・・」ということの限界の方に目が行って、「やっぱり、根本的には人が変わらないとダメでしょう」と思ってしまうのですが・・・)
でも、他の子達は、社会の中で生きていく。
ビジネスマンとして、一歩を踏み出す。
私自身はそれもまた大切な献身だと思わされます。
もちろん、悩むことはあるでしょうし、信仰者として難しい判断を迫られることがあるかと思います。その中で、「善意からであるとしても、貧しい人を貧しさの中に閉じ込めるようなシステム」に加担しない、ということにどれほど勇気がいるだろうかと思います。
でも、そこに一人の神の僕が出て行くことによって、そこに入ることによって、変わっていくものがある。またそこで学べることがある。それが尊いことだと思います。
一人一人、神様に導かれたところで歩んでいく。そこに招かれているのだと思います。
5月15日(水)の「日々のみことば」。
15日は列王紀下の最後、25章でした。
「そして侍衛の長ネブザラダンは、町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕え移した。」11節。
人々の罪・・・それは特に神を神としない、偶像礼拝だったのですが、その結果として、人々はバビロンに連れて行かれます。
どんなに悲しかったか、どんなに失意の中にあったかと思います。
しかし、ダニエル書などを読んでいると、
その連れて行かれた先でも、主を信じる者たちは、
神様の守りの中で、本当に危機の中で、支えられていきます。
偶像を拝むようにと強要され、「もしも礼拝しなければ、火の中に投げ込むぞ!」と脅される中で、「私たちの神は、この火の中でも守ってくださいます。たとえそうでなくても、私たちはこの像を拝みません」と言ったシャデラク、メシャク、アベデネゴの信仰も、この中で守られたこと、今日は思いめぐらしていました。
私たちが困難の中に置かれても、
その中で、共にいて支えてくださる方、
その主を信頼していきたいと思います。
主よ、
どうか、これから歩む道を守ってください。
今日も、困難のまっただなかにいる一人一人を支えてください。
そして、一人一人があなたの守りの中にいることを知ることができますように。
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