2013-01-11

「一致」について考える。

今日はどんより、で昼過ぎから時々雨。
夜になってから、ちょっとしっかり降ってきたかな。

で、明日からちょっと「暖波」です。
昼間の気温は10度は超えます。

楽しみですね。

でも、来週火曜日からはちゃんと冬に戻りそうです。
雪も降るかなあ。去年、今年と、初雪は早かったのに、そのあとあんまり降っていませんからねえ。

さて、今日の「日々のみことば」
今日は創世記の11章。「バベルの塔」の出来事のところ。

「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」4節。

人々は一致して働いた。
そして高い塔を建てた。
普通だったら、それはいいこと、って感じがする。
一つになるっていいことだと思われている。

でも、ここでの一致は「天に届く」ための一致。
「地に満ちよ」と言われた神の命令に背いて、散らされないようにするための一致。

神様はあえて、人々が地に散らされていくようにと、そのコミュニケーションを乱された。

現代もそういうことがあるんじゃないかと思う。
神に従う一致ではなくて、神の喜ばれない、自分たちのための一致を求める時に、あえて神がコミュニケーションを乱されること。

先日も、あるところで、「私たちはどうやって一致しているんだろうか?」という話をした。ある人は「ある人が大きな声を出して、他の人が我慢して一致しているなんておかしい」と言い、「我慢のない一致はないけど、それを超えるすばらしさがある」と言い、ある人は「そんなことはない、それぞれが生かされる一致がある」という。でも、実際のところ、「一致」自体が大切なのではないんだろうと思う。ここではあえて神が神への対抗という思いで一致していた彼らの言葉を乱された。

本当に大切なのは神のもとにひざまずくこと。
そこにある一致にこそ本当に一致と呼ぶべきなんじゃないか。

神様、
ホントにあなたの前にひざまずく者とならせてください。
あなたにひざまずくところにある一致のすばらしさを見せてください。
自己実現ではなく、互いに盛り上がるためではなく、あなたの前にある一致を経験させてください。


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