今日の朝、ある方の葬儀に参列してきました。
最近、葬儀を司式することがしばらくないのですが、
自分が一参列者として参列することが今年になってから、確か3回目。
いつも思うのですが、このように参列して、そこで語られるメッセージからは本当に教えられることが多いです。今日もカトリックの教会だったのですが、とても明るい会堂で、音楽も、とても暖かい音楽を使っていました。賛美歌のリードを専門になさっているんだろう、という方がおられて、そのリードもすばらしかったです。その中で語られたメッセージの中に、このような言葉がありました。「姉妹の召天によって、私たちはこの忙しい、慌ただしい時間の中で、ひと時、このように集められて、愛し合い支え合うことの大切さを思い出させられています。」本当にそうだなあと思いました。あえて時をとり分けることの大切さ、無理やりにでも、そのような時をもつことがどれだけ大切だろうかと思わされます。私もそのようなところに導かれて感謝しました。
でも、やはり、ご遺族の方々の痛みや寂しさは、喪失感はこれからも引いては押し寄せ襲ってくると思います。主の慰めがありますように。
今日のアドベント聖書日課。
ピリピ2:1-11。
「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」7-8節。
(プリント版、PDF版では「1:8」と書かれていますが、これは「2:8」の誤りです。
イエスがこの世に来られた。その喜びは、一つはやはり、昨日の記事のところに書いたように、私たちと共に歩まれた、それも、私たちの成功の場所を歩まれたのではなく、失敗と見えるような、軽く見られるような、侮辱されるようなところを歩まれた、ということ。
そして、なによりも、イエスが私たちのために十字架の上で罪を背負ってくださったこと。それによって私たちは罪赦され、義と認められること。
もう一度イエスのしてくださったことを思わされました。
今回の銃乱射事件で、命を失った先生方は、自分の命をもって、子供たちを守ろうとしました。自分はできるだろうかと思わされました。イエスはそれをもっと大きなレベルでしてくださったのです。軽く喜べることではなく、感謝をもって受け取ることだと思います。
主よ、
イエスが今日も、そして、明日も、私と共に歩んでくださることに、感謝します。
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