今日はGood FridayとResurrection Sundayとの間の一日。
なんだか、昨日「イースターよりもResurrection Sundayの方がいいかも」という話をしてから、今まであまり意識していなかった、イースターという言葉があまり意味がない元々異教的なことばであり、そのまま「イエスの復活の日曜日」、と言った方がずっといいこと、思わされています。ま、とりあえず、明日はハッピー・イースター!で行きますが。
さて、今日は早速「日々のみことば」。
今日はマルコの15:33-47。
「そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言った。」36節。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれた時に、ある人が「あ、エリヤを呼んでいるんだよ」と叫んだ。たぶん、彼は聖書をよく知っていた。ちょっと他の人たちよりもよく知っていた。でも、イエスの叫びは「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」だった。それがわからなかった。イエスはホントに孤独だったんだと思う。
私も、ちょっとわかったつもりになったりする。
でも、何にもわかっていないんだなと思う。
イエスの十字架。
昨日の夜の集会の準備をしている時に、
悔い改めた方の強盗の言葉「おまえは、同じ刑を受けているのに、神を恐れないのか」という言葉を思いめぐらしていた。彼が感じた「おそれ」。私は少しでもわかっているだろうか?そんなことを思いめぐらしている時に、頭の中に浮かんだ風景があった、人によってはこういうのを幻、というのか、と思ったけれども、なかなかない経験だった。どんよりとした雲の中に光が差し込もうとしているそんな風景だった。
そこには光があった、そこには希望があった。
闇は光には勝てない。
雲がどんなに分厚く覆っていても、
そこに少しでも日が差し込もうとしているならば、
そこは闇ではない。希望に満ちた場所。
イエスの十字架に、それを見たような気がした。
私達は鈍感で、わからなくても、
神様の方は、私達とともにいてくださる。
どこまでも、共にいてくださる。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
そう叫ばれたイエスのことを、私達は全然わかっていなかったけれども、
イエスは、実はそこで、究極的に私達に寄り添ってくださっていたのだ。
そこにあるのは圧倒的な恵みなんだな、そう思う。
主よ、
あなたのことがなんてわかっていないんだろうと思います。
でも、あなたはどこまでも私達とともにいようとしてくださっていた。
その恵みの中に生かされていることに、感謝。
のんちは、私が育った、木場深川教会での礼拝。
今週一週間は東京にいるんじゃないかと。
この先の歩みのために、主の導きをお祈りください。
主のご復活、おめでとうございます!
ReplyDelete私も、6、7年前に、「イースター」とは異教の女神の名前の派生語だと知って以来、復活祭を指してイースターと呼ぶことを止めました。日本語には「復活祭」というそのものずばりのすばらしい言葉があるのに、なぜわざわざ異教の女神の名前でこの大切な日を呼ばなければならないのか?と思ったからです。英語でも、「Resurrection Sunday」という言い方をする人もいるので、私はずっとそれで通しています。(私のブログの過去ログを検索すると、さりげなくこだわっているのがわかります。笑)
>私も、ちょっとわかったつもりになったりする。
ReplyDelete>でも、何にもわかっていないんだなと思う。
>イエスの十字架。
本当にそうですね…
私は、今日復活祭礼拝に行ってきたので、明日は家で静かにゆっくり過ごします。
そちらの復活祭礼拝も祝されますように…
日本の範子先生も、祝された東京での時となりますように…
はちこさん、
ReplyDelete主の復活を心から感謝します。
私のために主が復活してくださったことを思わされます。
私も意識してみたら、
確かにはちこさんも「イースター」という言葉は使っておられないな、と思っていたところでした。でも、去年までは全然気がつきませんでした。
今年はわたしも「復活の日」「復活のお祝い」「復活祭」「Resurrection Sunday」を使うように意識し始めましたが、でも、まだ「イースター」を使わないのは難しいですね。少しずつですね。
今日はいかがでしたか?
私はたくさんの方々とともに主の復活を賛美できたのはよかったですが、暑くて、汗だらだらになって、かな〜り、疲れております。