2011-02-18

たましいが喜ぶこと。

今日は暖かかったです。
18度Cまで上がりました。
でも、午後3時頃からはどんどん気温が下がって、
今は夜の8時過ぎですが、
11.4度C。まだまだ十分暖かいですね。
ほぼ、雪も融けて、芝生も所々見えて来ています。


でも、とにかく暖かさも今日までで、
明日からは現実に戻ります。
今夜これからぐんぐん気温が下がって、
明日の朝の予想は0度Cくらい。


で、その後の予報ですが、
日曜日の夜は雪やみぞれ、sleetなど。
月曜日も雨や雪だと思います。
たくさん積もることはないと思いますが、
火曜日も朝のうち雪かな。


今日も午前中は祈り会。
そして、午後は祈り、本を読み、また日曜日の準備をしながら過ごしました。
今、本当に大切にしなければ、と思わされているのは、
自分の「たましい」が喜ぶこと。


それは「自分のことしか考えない」とか「自己中心に生きる」ということとはちょっと違う感覚で、ホントに神様の喜ばれる歩みは、好きなこととは違って、放っておいても、自分の生きたいように生きれば、神様が喜ばれるという訳ではなくて、そういうことじゃなくて、でも、ある意味「十字架を負うような歩み」なんだけど、それでいて、「たましい」の深いところに喜びを感じるというか、「なんだかなあ」というんじゃなくて、深い喜びがあるような、そんなことを大切にしたいと思うんです。


うーん、伝わるかなあ。


無理している時って、「神様に従っている」感もない時があるんです。「ああ、自分は人に気を遣ってこれやっているよな。そして、これ、自分的にもしんどいし、神様も喜んでおられないんじゃないかな」的なこと。


逆に、「神様に従っている」感があることなら、自分的にしんどくても、評判がどうでも、大丈夫。それが「たましいの喜ぶこと」かな。あ、でもその「神様に従っている」感があることも、いつも聖書によってチェックされ、祈ってくれている信頼できる人によって確認されることも大切だと思うけど。


さて、今日の聖書。
今日はアモス8:1-14。


「彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを探し求めて、行き巡る。」12節。

このアモスの預言は、「みことばのききん」について語っている。
つまり、人々が求めても、神の語りかけを頂けない時が来る、という預言だ。
アモスの言葉自体が神からの語りかけを預かって、人々に伝えているのだから、問題は、「やがて御言葉が聞きたくても聞けない時が来る」ということ自体よりも、今、神の言葉を聞けているときに、聞こうとしない姿勢なんだろうと思う。

そうなんだよねえ。
神様は語ろうとしておられるんだよねえ。
なのに、自分はちゃんと聞いているだろうか。

他の何かによって心を満たそうとしていないだろうか。

日曜日のために、御言葉を待ち望みながら、
本当に自分の信仰の姿勢を問われるような思いがしました。

主よ、
あなたのみことばを与えてください。
そして、私があなたの語りかけを聞くことができますように。
その飢え渇きと、敏感さを与えてください。

No comments:

Post a Comment