2011-01-27

なおりたいのか?

いやあ、朝起きたら、「結構降ったなあ」と思いましたが、
うちの近所よりも、ハドソン川沿いの方がかなり大雪だったみたいですね。


Mitsuwaのすぐそばの一本上の道を人を迎えに行ったら、
もう雪国のようでしたよ。


うちの方は昨日のうちに1回雪かきをしていた朝の分と合わせて30センチくらいだったでしょうか。でも、湿った重い雪を、自分の背の高さよりも高く放り投げて、雪かきをしていたら、肩の痛みは全くなくなっていました。単なる「PCのキーボードたたき過ぎ病」だったんでしょう。


ちなみに明日、明後日と小雪があります。
そして、来週の水曜日くらいにはまた次のstormです。
今回みたいなことはありませんが、
まあ、それなりに降ると思います。


昨日の宿題の「直りたいのか?」ですね。
火曜日にはこの言葉が「あ、自分は直りたいのだ」という38年間の時の長さ故になんだか、どこまで本気だったのかわからなくなっていた彼の気持ちが、最初のポイントに引き戻されるようなそんな言葉だったのではないだろうか、と思いました。
言葉では「だれも助けてくれない」なんて言い訳をしていたのですが、そんな中にも「ああ、直りたいんです」という思いが湧いて来たのではないでしょうか。


そんな、彼の気持ちを引き出すような、彼を原点に引き戻すようなイエスの言葉だと思いました。


そして、個人的には教会の会堂のことを思わされました。


「本当に、あなたは求めているのか?」「欲しいのか?」と問われたように思ったのです。


38年までは行きませんが、23年間、ずっと求め続けて、でもずっと与えられない中で、


「私たちはそこまで力はありません」
「いい物件が出てくると、他の教会が買ってしまうんです」


そんな言い訳をしながら、
いつの間にか、また、今の状況が居心地が良くなってしまったのではないかと思わされました。


そんな中で「直りたいのか?」と聞かれたイエスの言葉が、
私の心には「あなたはホントに会堂を求めているのか?」と聞こえて来ました。


「そうです、イエス様」と、そのように祈らされました。


さて、今日の聖書。
マルコ9:14−29。


「信じます。不信仰な私をお助けください。」24節。

この言葉も私の心からの言葉です。

自分の経験だとか、自分のイメージだとか、そんなものに縛られている私たちが神様を信じることは、イエスを信じることは、この言葉で表すしかないんじゃないかと思う。

私も自分の経験だけだと、語れないこともある。
でも、聖書の言葉は私の経験を超えている。
自分のちっぽけな経験よりも神様の言葉は大きいし確かだ。

自分から出る信仰ではなくて、
神様の与えられる信仰。
それを信じて行こう。自分の経験よりも、神のみ言葉を信頼していこう。

主よ、
あなたを信頼して行きます。
自分の経験や、自分の考えが砕かれなければ、あなたはお用いになれません。というか、自分の考えにとどまっているのは信仰ではありません。
自分の思いや経験を超えた神の言葉を信じよう。

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