2010-10-05

神様からの力。

ここのところ、ほんとに雨の日が多い。
今朝もどんより。
一日どんより。で、時々霧雨。
予想より良くなって、明日には、少しずつ、回復始めるようです。


こんな日は気分もどんよりしてくるのですが、
今日は弟子訓練のグループもあり、
気持ちが前に向かっていたのでしょうか、
元気に一日を始めることができました。


何よりも「あしたからマン」にならないで、
今朝からちょっとジョギング。
Jogboyという無料アプリの助けをいただきながら。
15分、2kmでしたけどね。クールダウンのウォーキングを含めて150kcalでしたけどね。
コーラ缶一本分ですけどね。


ま、初日ということで。
三日坊主、という言葉もありますし。


でも、今日の弟子訓練でもほんとに思ったのですが、
自分の力の源はどこにあるんだろうかと。
今日はイエスの十字架がテーマだったのですが、
本当にその十字架の愛に撃たれた喜び、もう一度そこに立ち返る思いがしました。
今からもう27年も前、神の愛が「わかった」その時のあふれた喜びが、
ずっと、自分を生かしてきたのです。


でも、去年1年間、洗礼を受ける方がおられないという痛みの中で、
そして、今年、受洗者が何人か与えられている喜びの中で、
それは本当に嬉しいことなのですし、
決して間違いではないのですが、
いつの間にか、その「神に愛されている喜び」よりも、
「人が救われる喜び」の方に自分の目が移ってきているように感じました。


いや、ほんとに、一人の人が悔い改めて、
イエスを信じる者とされることはとても嬉しいことであり、
それを喜びとすることは何も間違っていないと思います。


でも、それがいつの間にか、わたしの力の源であるはずの、
「神様と共に生きる喜び」「神がわたしのためにひとり子イエスを与えてくださった喜び」よりも、注目されたり、間違っても、「牧師としての成功」みたいなものにすりかわったりしてはいけないのです。


「この水を飲む者はまた渇く」


そう、イエスの与える水以外のもので心を満たそうと思っても、
それはやがてまた渇くのです。


やはり、どこまでいっても、このイエスの十字架のあがない、イエスの十字架の救いに力をいただいて、それを愚直に語っていく者でありたいです。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第一12:25−33。


「ヤロブアムは心に言った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。」26−28節。

ヤロブアムが神に背いたきっかけは、「恐れ」だった。
人々が自分から去っていくのではないかという恐れ。

エルサレムに巡礼に行く民が、
いつの間にか、ダビデ王朝についてしまうのではないか、
それを阻むためには、エルサレムに行かなくても礼拝ができる場所を作ることが大切だ、
そのようにヤロブアムは思った、という。

11章28節にはこのような約束がヤロブアムに与えられている。

「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。」

しかし、ヤロブアムはそれに従えなかった。
人々が自分から離れていくのを恐れたから。

自分はどうだろうか?

神に従っているだろうか?

人々の顔色を恐れていないだろうか?

主よ、
あなたを信頼します。
あなたの御言葉を信じます。
どうか、わたしの中から恐れを追い出して、
あなたの愛で満たしてください。
あなたがわたしを愛してくださったように、
私も周りの人々を愛することができますように。

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