2010-05-16

闘いとしての礼拝。そして、礼拝のための闘い。

今回のWorship Seminarで学んだことはこれでした。


創世記4章で、最初の礼拝の中に忍び込んできた、「妬み」「怒り」、そして、最後には「殺人」。礼拝を台無しにしようという力がそこには働いている。


礼拝は、
キリストの主権を宣言すること。
神を神としてその前にひれ伏すこと。
主の臨在、神の愛を信頼して歩むこと。


それは自分の気持とはかかわりなく、です。


それを否定しようという力が働きます。
お金が私達を生かしているかのように思い込ませたり、
病が私達を支配しているように思わせたり、
神の愛を否定したり、
不信感を互いの中に植えつけたり。
でも、その中で、ハッキリと主の主権、主の支配、主の最善を告白し、
そこに生きていくのです。


毎日が「礼拝」というのもそのコンテキストで考えるとクリアに見えてきます。


そのような生き方を、社会生活でも、家庭生活でもしていく、ということなのです。


それは闘い。


だから、礼拝は闘い。
そして、そこで勝利するために、
礼拝のための闘いがある。


礼拝をリードする使命をいただいてる者として、
そこに焦点を当てて歩んで行こうと思わされました。


本当に幸いな3日間でした。


知らない曲ばかりだったのですが、
「魂」が喜んでいることが分かりました。


主を喜ぶときに、私たちは力が与えられるって、
本当ですね。


JCCNJの礼拝が、
各地の教会の礼拝が、
さらに祝福されますように。


みなさんの一週間が主の支配の中に守られていることを、
一人ひとりが経験することができますように。


さて、1週間の「ひびみこ」で語られたこと。


昨日まででエレミヤ47章まで来ました。
その中で一番心に残ったことば。


「エジプトはかわいい雌の子牛。・・・その中にいた傭兵も、肥えた子牛のようだった。」46:20-21。

戦いのために備えの出来ていない者たちの姿。
それがミジメで、滑稽なくらいだ。

最近また「龍馬伝」がたまってきてしまっているが、
ずいぶん前に見たエピソードの中で、
黒船が来たときに、
武士たちが刀や鎧を探しに古道具屋に殺到する場面があった。

徳川時代の二百数十年の平和な時代の中で、
武士が戦うことを忘れてしまった。

私たちは武力で戦うことはないかもしれないし、
そのことを願うけれども、
霊的には戦いがある。
礼拝が「戦い」だ、ということだったけれども、
本当にそうだ。

その戦いに備えが出来ていないということはないだろうか?
霊的な平和ボケというか。
いや、平和であるかのようにボケてしまっていることはないだろうか?
戦うべき時に戦わないで来たときに、戦えないものになってしまっていた、ということはないだろうか?主の力を知らない者になっていた、ということはないだろうか?

戦いの備えをしていく者でありたい。

主よ、
霊的な戦いの備えをさせて下さい。
そして、そこで勝利をいただくことができますように。
勝利を得ることができますように。
物事の本質を見ぬくことができる者でありますように。

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