2009-06-27

神様からの知恵を求める。

12時を回ってしまったので、
昨日のことになりますね。
昨日はやっぱり夕方にものすごい雷雨でした。
ほとんど一日、蒸し暑い、どんよりしたり、晴れたり、
という感じでしたが、
5時頃からどーっと暗くなり、
風が吹いてきて、
6時頃には雷と共に土砂降りになりました。


でも、7時半の集会の時間にはすっかり上がって、
ちょっとは蒸し暑さが和らいだでしょうか。


明日は中高生を連れて出かけてきますが、
また雷雨があるかも・・・です。


今日の夜は一つ集会があって、「伝道の書」というのを読んだのですが、
先月は「箴言」を読んで、今月はこの「伝道の書」を読んで、
この二つの書物の性格はずいぶん違うのですが、
中心的なメッセージは一つで、
神様を恐れて、神様からの知恵をもらいなさい、
ということでした。


それを学んでいる中で、
自分の傲慢さを感じ、
いかに自分が、この「神様からの知恵」を求めていなかったか、
「もう知っている、わかっている」という気持ちをもってきたかを、
聖霊様に示されて、悔い改めに導かれました。


そこそこ「お勉強」はできて、
牧師の家庭で育って、ある程度「教会のことも知っている」し、
日本の聖書学院で学び、
アメリカの神学校や、大学の大学院で勉強して、
いろんな知識があるつもりになっていました。
でも、本当に心から祈って、「あなたからの知恵を与えてください」と祈ってきただろうか、
あのソロモンのように、「私は人々をどう導いていったらいいか、わかりません。どうか、あなたの知恵を与えてください」と祈ったことがあっただろうか、と思わされたのです。


そして、本当に自分が神様の知恵を頂いてこなかったことが、
教会の皆さんに対して、また今までであった方々に対して、
申し訳ない、と思いました。


祈ります。
主よあなたの知恵を私に与えてください。
あなたの知恵なしには、私の生涯はむなしいのです。


さて、木曜日と金曜日(6月25・26日)の聖書。
木曜日は出エジプト記38:1-20。
金曜日は出エジプト記38:21-31。


「また彼は、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入口で務めをした女たちの鏡でそれを作った。」8節。
「これを用いて、彼は・・・また、庭の回りの台座、庭の門の台座、および、幕屋のすべての釘と、庭の回りのすべての釘を作った。」30-31節。

木曜日の「日々のみことば」では、
女性達が自分たちの大切な鏡をささげて、
それで、職人が洗盤を造ったことに触れられていました。

でも、私はそれを読みながら、
そのほかの人々のささげもののことに心が向いていました。
この女性達のように、
「この人はこれをささげました」と注目されるささげものもあるでしょう。
そしてその信仰の姿に周りの人たちが励まされることもあるでしょう。

でも、ほとんどのささげものは、主との関係の中だけでささげられ、
誰の注目を浴びることもなく、
誰が何をささげたかも、何もわからず、
誰かに感謝を言われるわけでもなく、
ただ、主に感謝をもってささげられていくのです。

そして、金曜日の聖書の箇所の中で、
青銅がある場合には「釘」として用いられたことが書かれていました。
釘を人々は見ないでしょう。
ほとんどの釘はそのあとにかぶせられる金や銀によって覆われてしまって、
誰の目にも留まりません。
でも、その釘はどうしても必要で、
どうしても、そこになければならなかったのです。

誰からささげられたか記録されて、洗盤に用いられる青銅もあり、
誰がささげたかも記録されずに、そして、釘として用いられる青銅もあり、
でも、どちらも主の働きのためにどうしても必要なもの。

「釘として用いてください」と祈りました。
また、「釘として用いられる青銅にも気が付くものとしてください」と祈りました。

主よ、
あなたのために用いてください。
青銅の釘としてください。
また、表面に張られる金や銀ばかりではなく、
青銅の釘にも気が付く者としてください。

主よ、
あなたの知恵を与えてください。
人々を導いて、教会を建て上げるために、
あなたの知恵を与えてください。
私にはどうしてもあなたの知恵が必要です。

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