2007-05-10

畏れと喜び

今日は暑かったです。
ちょっと蒸し暑くも感じました。
日本から来られている方にとっては、

こちらはからっとしているそうですが・・・。

今夜、雷雨とか言っていましたが、
大したことはないようですね。

明日も一時雨。

花粉症には、花粉を一気に流してしまうような雨が欲しいのですが・・・。

昨日のことですが、
午後、病床訪問で、Roosevelt Islandに行ってきました。

2回目なのですが、
前回は車で行ったので、楽だったのですが、
今回は地下鉄。

「迷わないで行けるかなあ」と思いましたが、
そこはマンハッタンの東を流れるEast Riverに浮かぶ細長い島。

幅が200メートルくらいしかないので、
迷うことはあり得ないくらいのところでした。

暑い中、コンピューターと、聖書と、本を詰めた鞄を持って、
30分はちょっときつかったですが、
無事、目的地に着きました。

しばらくお話をして、帰り道、

なにか、「いいなあ、ここ」と思いました。
ウォーターフロントで、なんか、自分の育った東京の下町と似ているんですよね。


高層アパートがあったり、
川が流れていたり。

高層アパートの中庭では子供たちが遊んでいたりして。

地下鉄に乗って、10分くらいで、ミッドタウンの、
「いかにもNY」って観光地かつビジネス街に出ちゃうんだから、またこれがすごい。

ちょっとあこがれてしまいました。

さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の47篇を読みました。

「まことに、いと高き方主は、恐れられる方。
 全地の大いなる王。」
2節の言葉です。

神様は恐れられる方。
恐るべき方。

しかしまた、
「神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、
 上って行かれた。」
5節にはあります。

神様は私たちの喜びの叫びの中を通って行かれる方。

畏れと共に喜びがある。

根底にあるのはやはり「畏れ」なんだろうなあと思います。
神様の前に出る権利も、資格もない。
そんな者が、おそれおおくも、
御子の十字架によって、
「神の子」とされている。

何ということかと思います。

そこに喜びがある、そのように思います。
恐れない喜びは、あまりに表面的で、
あまりに自己中心的な、喜びだと。

主よ、
あなたが私たちを受け入れてくださること、
神の子としてくださったことに感謝します。
あなたの前に出る資格もない者であることを、
今日も忘れないように、守ってください。
一瞬たりとも忘れないように、守ってください。


3 comments:

  1. こんにちわ。
    私は、”神を恐れる”という箇所に注目しました。日本語だと、漢字からしても怖がっているところがありませんか?本当は私たちを子供と呼んでいる下さっているのに。。
    訳文を疑ってはいけませんが、遠い存在として感じてしまいませんか???

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  3. atiaさん、おはようございます。
    神様を恐れるということは、たぶん、自分の罪が見えてくるからだと思います。聖書の中のイザヤ書の6章には、神の前に出たイザヤが「もう、私はダメだ」と言わないではいられなかったことが書かれていますが、神様の聖さがわかり、自分の罪の恐ろしさが見えてくると、神の前の恐れを感じないではいられないのでは?

    新約聖書のパリサイ派の人や、学者さんたちは、自分たちの罪が見えていませんでした。だから、神を恐れることを知りませんでした。放蕩息子のお兄さんは、「自分はこんなにまじめにやってきたんだから、もっとしてくれてもいいのに」と思っていました。

    私もそうでした。自分の罪がわからなかった時、自分は結構いい線行っていると思っていた時には、神様の愛、と言われても、それを「当然」と思っていました。

    でも、自分の罪深さが示され、「自分は神の子なんて呼ばれる資格がない」とわかった時、そんな自分が愛され、神のひとり子イエスが私たちの罪のために死なれるほどのことをしてくださったことに「福音」を見て、「喜び」があふれてくるようになりました。

    神に対する恐れを知ると、神の愛の深さが見えて来るんだなあ、と思います。

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