2006-11-06

誇るものはなくていい

回復しました。
昨日、5日の分です。

昨日の日曜日、朝も午後もミーティングが続いたので、
ちょっときつかったですが、
礼拝は幸いな時となりました。
多くの方々が集まられました。

礼拝後皆さんとゆっくりお話ができなかったのが残念でしたが・・・。

このところ、いつも使っているマウスが調子が悪いので、
思い切って、「タッチパッド」(フラットパッド?)に慣れてやろうと思うのですが、
なかなか慣れません。
マウスを持ち歩くのも、何だか「せっかくノートブックなのに・・・」というのもあり、
少しでも「節約生活」をしようということもあり、
挑戦中。

触ったつもりがないのに触ったことになってしまったり、
触っているのに、読みとってくれなかったり、
感度を調節するのですが、まだまだダメですねえ。

14年前、アメリカに来た時は、MacのPowerbookを買いました。
来たばっかりの時は、ちょっと貯めたお金があったので、思い切って買いました。
あのころで1500ドルとか?もっとかな?
「トラックボール」というのが真ん中についていて、とても使いやすかったです。
そして2代目、3代目と、Toshibaで、「スティックポイント」?だったか
何だったか、あんまり最近見ない、短い棒みたいなのがキーボードの真ん中にあって、
それも使いやすかったです。
最近見ない、と言うことは、たぶん、「使いにくい!」って人が多かったのでしょう。
今回買う時も、その棒がついているヤツがいいなあ、と思ったのですが、
余りないんですね。結局、その他のところを見て、「お買い得かな」というのを選んだら、
「タッチパッド」のヤツだったんですね。まあ、そのうち慣れるだろう、と思って・・・。
でも、それから間もなく2年。ずっとマウスを繋いできていたんです。

ま、何事も挑戦。
勝手に触ったと判断されるのがイヤで、
「タップ」といって、パッドを叩いたら、「クリック」したと同じことになる機能は、
OFFにしてしまいました。
それでずいぶんよくなりました。
でも、まだ「ドラッグ」はダメです。

まあ、焦らず、ボチボチ慣れていこうと思います。

ということで、昨日の聖書。
ローマ人への手紙3章を読みました。
わたしたちが罪人であって、自分の力で救われることはできない。そこで、神様が救いの道を開いて下さった、というところです。

27節の言葉が心に留りました。
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」

自分の誇りはどこにあるんだろうなあ?
自分は何を誇りとしているんだろうか?

でも、それは取り除かれたのだというのです。
「自分はこんなにやっている」とか、
「自分にはこれがある」とか、
「こんな実績がある」とか。

そういうものは取り除かれた、というのです。

でも、人は誇りを持たずに生きていくことはできるのでしょうか?

私の結論は、「神の愛を知った時に、『私にはこれがある』という誇りがなくても、
『こんなわたしが愛されている』という安心感に支えられて、生きていくことができる」
でした。

そう思います。

誇る必要がなくなる、

極端に自信がない人で、
自分の過去の業績とか、才能を得意げに話す人に閉口することがありますが、
ちょうどそれと反対に、愛されている故の安定感で、
何も誇りにする必要がなくなるのではないかと思います。

いずれにしても誇るものはないんです。
「取り除かれた」のですから・・・。

主よ、
ただただ、あなたに感謝します。
あなたが私に「誇る必要のない」歩みを与えて下さっていることを。
あなたに出会わなければ、私は自分を誇らないでは生きていけなかったんだと思います。
あなたに会えてよかった。
ありがとうございます。

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